〜幕末こぼれ話〜

『新選組近藤勇の愛刀』
近藤勇の愛刀は虎徹という名刀でみんなに自慢し池田屋事件でも刃こぼれ一つなかったと言われているが実は偽物であったとの説もある。

『新選組の第一次・第二次編成』
1863年第一次編成
[局長]
芹沢鴨
近藤勇
新見錦
[副長]
山南敬助
土方歳三
[助勤]
沖田総司・永倉新八
原田左之助・藤堂平助
井上源三郎・平山五郎
野口健司・平間重助
斎藤一・尾形俊太郎
山崎蒸・谷三十郎
松原忠司・安藤早太郎
[調役並監察]
島田魁
川島勝司
林信太郎
[勘定役並小荷駄方]
岸島由太郎
小関弥兵衛
河合耆三郎
酒井兵庫

1865年第二次編成
[総長]
近藤勇
[副長]
土方歳三
[参謀]
伊東甲子太郎
[組長]
一番隊、沖田総司
二番隊、永倉新八
三番隊、斎藤一
四番隊、松原忠司
五番隊、武田観柳斎
六番隊、井上源三郎
七番隊、谷三十郎
八番隊、藤堂平助
九番隊、鈴木美樹三郎
十番隊、原田左之助

『坂本竜馬が最初に学んだ武術』
土佐城下築屋敷にある日根野弁治の道場で流派は小栗流と言う。
戦国時代、徳川家康が家臣小栗仁右衛門によって創始された武術で剣術だけではなく、和術(柔術)・居合・槍法・騎射・長刀・水泳・水馬などもあり総合武術であった。


『坂本竜馬の身長』
竜馬は、約176センチでがっちりした体躯だった。当時の成人男性の平均身長は158センチと言われているから、かなりおおきな部類だった。

『坂本竜馬の逸話』
大人になってからの逸話だがあるとき、蘭学者からオランダ政体論の講義を聞いていた途中で竜馬は講義に誤りがあると感じ発言。けちをつけられ蘭学者は憤慨したが念のため原書を精読すると、なんと竜馬のいうとうり翻訳に誤りがあった。
竜馬には体系的な学問を修めていなくても、学ぶべき要点を的確にとらえる聡明さがあった。


『高杉晋作、脱藩の罪で野山獄へ入牢』
師の吉田松陰と違い、面会人ゼロ、「おれは人気がない」と意気消沈。


『高杉晋作の外交交渉』
四国艦隊に長州藩は敗北。
講和をすることになり高杉晋作が全権を任され、通訳の伊藤俊輔と交渉の場へと。
そこに高杉晋作は何と、鎧に陣羽織というスタイルで登場する。そして領土租借を提出されると古事記講釈でケムにまき、撤回させる荒ら業を演じた。



『高杉晋作がしでかした前代未聞の出来事』
将軍家茂が天皇の賀茂社行幸に供奉したとき、見物人の間から天下の将軍にジカに野次をとばした。家康以来、天下の将軍が野次をとばされたのは前代未聞のことであった。

『高杉晋作がしでかした前代未聞の出来事2』
藩に呼び戻され帰る際、箱根の関所破りを敢行。
江戸300年で白昼堂々関所破りをやったのは高杉晋作ただひとり。


『竜馬の脱藩が生んだ悲劇』
脱藩の罪は本人だけではなく家族にも及ぶ。
竜馬は1862年、夜陰にまぎれて土佐を脱藩。自由に奔走するためであった。が、家族に犠牲者が出る。兄の権平は不穏な動きをする竜馬を監視し刀も取り上げていたが、次姉のお栄は竜馬の脱藩の決意を知り、刀を与える。
権平は竜馬を行方不明、お栄は急死ということで坂本家の危機を乗り切る。


『京都にいた脱藩浪士の人数』
文久二年三月当時の人数
薩摩2000人
長州300人
土佐5人
肥前佐賀6人
他の藩もいるが、やはり薩摩が群を抜いていた。


『浪士と浪人の違い』
浪士は自分の志を遂げるため自ら藩籍を離れた者。
浪人は幕府の取り潰しで藩が消滅し、自己の意志に反して流浪の境涯になった者や主君の怒りをかったり、藩の財政が窮迫し人員整理にあったり、不正・不倫を働いて藩から追われた者をいう。


『竜馬が観た西郷隆盛とは』
西郷という男はわからない。小さくたたけば小さく響く。
大きくたたけば大きく響く。


『西郷隆盛の勝海舟の印象とは』
英雄肌で、佐久間象山より一層有能であり、ひどく惚れた。

『武市半平太の坂本竜馬に対する評価』
竜馬は脱藩するが、別れに際し詩を送る。
「肝胆、元より雄大。奇機、自ずから湧出す。飛潜、誰か識る有らん。偏に竜名に恥じず」


『高杉晋作の気性』
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
かなり激しい性格であったらしい。


『桂小五郎と芸者、幾松の恋』
新選組の執拗な探索がつづき、あるとき不意に襲われた。
幾松は小五郎を床の下から逃し、一人舞いながら座敷に踏み込んだ隊士を迎えた。
殺気だった隊士は、その気勢にそがれたのか、無言のまま立ち去った。
その後も、小五郎のために外出するごとに町の人々の話に耳を傾け聞き知ったことを伝えた。
維新後、幾松は正妻となる。


『妻ひとりを愛し通した武市半平太』
武市半平太は21歳のとき、富子と結婚した。
それ以来、切腹し果てるまでの17年間、富子ひとりを愛し続けた。
藩命で江戸、京都に出たときも花柳街に足を踏み入れ、現地妻を求めるようなことはなかった。国許に残した貞淑な妻と手紙でこまやかな夫婦の情愛をかわしあっていた。


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