短編集
□新社会人一日目
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とても朝から緊張していた。胃がきりきりと痛む。今日から社会人の仲間入り。学生の時も電車を使用していたが、社会人になってあの満員電車に毎日揺られると思うと気が滅入りそうだった。遅延を恐れ、1時間も前に会社前に着いてしまった。極端すぎる。
上手く、やっていけるだろうか。大学生らしき人を見かけるとやっとの思いで就職したのに少し羨ましい気持ちにすらなる。
緊張し過ぎて食欲がなかったため朝食を抜いたせいか、胃に不快感があった。少し気持ち悪い。
ちらりと見えた『ポアロ』という喫茶店。立てかけてある看板を見てモーニングもやっているようだった。とりあえず早く座りたかったため躊躇わずに店のドアノブに手をかける。
遠慮がちに開くとカランカランと鳴るカウの音とともに明るい声で店員が「いらっしゃいませ」と声を掛けてくれた。
整った顔立ちの男性店員にスッと背筋が伸びる。先程とは違う意味で緊張してしまう。
「お一人様ですか?」
「は、はははい」
コクコクと頷くとテーブルへ案内された。まだ店を開けたばかりなのか客は自分一人だけだった。
「もしや今日が初出勤ですか?」
まさか話しかけられるとは思っておらず「へっ⁉」と変な声が出た。それにイケメン店員さんはクスクスと笑いながらテーブルにお冷やを置く。そんな顔も良い…。
「何やらすごい緊張されているみたいでしたので…」
「そ、そうなんです…。上手くやっていけるか不安で…」
「あまり緊張しすぎてしまうと返って上手くいかないものです。まずは美味しいものを食べて気分を落ち着かせてみては如何でしょう?」
「で、ではカフェラテを…」
「ハムサンドもご一緒にいかがですか?」
店員のきらきらした笑顔に負け、ではそれも…と食欲がないのに頼んでしまう。失敗した。全部食べきれるだろうか。
「少し小さめにしましょうか」
優しい口調で彼はそう告げた。どうして…という顔でお兄さんを見る。すると彼は困ったように眉を下げながら口を開く。
「胃の部分、先ほどからずっと摩る様に触っていますね。朝は食べれました?」
「いえ…」
「顔色も良くありません。無理にとは言いませんが少しでも何か口にしていってください。カフェラテといえど多少は胃にきますから」
温かい、優しい言葉。まだ仕事も始まってすらいないのに始まる前から泣きそうだった。
少し経ってカフェラテと一緒に小さくカットされたハムサンドを持ってきてくれた。
パクッと一口、口に含む。ゆっくり味わうように咀嚼する。失礼かもしれないがコンビニのそれとは全く異なり今まで食べた中でとても美味しかった。シャキシャキとレタスの食感がまた食欲を唆る。あんなに食欲がなかったのにペロリと平らげてしまった。食いしん坊だと思われただろうか。
リーフのラテアートを施されたカフェラテを視覚的にも楽しみながら口をつける。きめ細やかな泡が唇に触れ、ほのかに香るコーヒーの匂いに目を細める。甘く、優しい味にほっ、と心が温かくなった。
随分ゆっくり過ごしていたようで店の時計を見てそろそろ出社しても良さそうな時間帯だった。
会計をお願いすると彼は作業の手を止めてレジに回ってくれた。
男性ならではのゴツゴツとした長い指。きらきらと光る綺麗な髪の毛に長い睫毛。見惚れていると彼が告げた金額を聞いて我に帰る。
「えっと、あれ…?」
「サンドイッチは僕のサービスですので」
「えっ?」
「お仕事、頑張って」
「あっ、ありがとうございます!なんだか頑張れそうです」
「たまに自分を甘やかしにここへいらして下さいね。とびきり美味しいカフェラテをご用意致します」
「はい!絶対にまた来ます!」
「いってらっしゃい」
小首を傾げニコッと笑うお兄さんに、こちらも自然と口角が上がる。
「行ってきます!」
出勤したらまずは笑顔で挨拶をしよう、と心に決めて先程とは違い、軽い足取りで会社へと向かった。
end
2020.4.1.