短編集
□寝てないんです
1ページ/1ページ
寝てないんです
三徹目
やってしまった。
組織で頼まれた事案を難なく熟し、ポアロの業務までは余裕だったが、そのあとベルモットと食事をし、その足で深夜にもなる時間帯に本庁へ寄ったところでほんの少しだけ眠気に襲われる。
三徹目と言ってしまったが、実際には一時間でも仮眠はとっているので十分な睡眠が取れていないだけで寝てはいる。
ただ、この一週間はIOTテロなんかもあって、事後処理に追われ体力的にもそろそろ限界だったのかもしれない。
好きな女がオフィスで笑って缶コーヒーをお裾分けしてくれたらキスぐらいしたくなる。
そう、してしまったのだ。
彼女の顔は途端に赤くなり、セクハラー!と叫びながら拳で頬を殴り、出て行ってしまった。
ビリビリと衝撃が走る左頬に手を添え、途端に我に帰る。なかなかの良い右ストレートだった。ではなく、確かにセクハラだ。と頭を抱える。好きでもない男にされたなら尚更だ。重罪である。やってしまった。悲しませるつもりはなかった。
慌てて彼女を追いかける。
悲しませるぐらいなら己の本音を包み隠さず曝け出したほうがまだマシだった。
「待ってくれっ」
降谷の声で彼女は立ち止まり振り返る。涙目だが耳まで真っ赤な顔を両手で挟み、羞恥に満ち溢れている表情で降谷を見た。その反応にもしかして君も…、と心に少し余裕が出来てしまう。
「夢野っ、聞いてくれ。僕は君のことが…」
しかし、彼女の目は途端に据わり、サッと体勢を低くした。じりじりとゆっくり後ろに下がりながら降谷との距離を測り出す。まるで猛獣でも相手にするかのようなその体勢にこちらもつい言葉を詰まらせる。
僕は熊か何かと間違えられているのだろうか?
一歩、足を踏み出せば彼女の体は威嚇するかの如く小さく跳ね、いつでも技を繰り出さんばかりに両手を上下に広げる。すでに暗記してある彼女の履歴書には柔道とレスリングが得意分野であることを思い返す。そこで降谷は確信した。
あっ、これは嫌われたんだと。
その夜、誰もいない本庁の廊下を不審な二人がじりじりと後ろに下がりながらその場を後にする姿があったとかなかったとか。
翌日。
昨夜の件について弁明したかったのだが、顔を合わせる度に彼女はサッと壁やら自販機やら机の物陰やらに隠れ、目だけを出してこちらの様子を伺っている。その姿はまさに人間を警戒している野生動物のようだった。
近づいて技を掛けられるのも悪くはないが部下を前にそんな醜態は晒せなかった。
「降谷さん、いったい彼女に何をしたんです?」
凄みを利かせてこちらを物陰から睨んでいる夢野を見て風見は尋ねる。こんなところをあの小さな少年にでも見られて見ろ。暇なのか?公安…などと思われ兼ねない場面である。
「興味を持たれていることは嬉しいんだがな」
「このままでは仕事に支障が出かねません…お互い」
「そうだな。もう、ワンアクション欲しいな」
「違います。控えて、と言ったのです」
「見てみろ、あの殺気だった表情を…」
「・・・・」
「あんな顔も出来るんだな」
「重症なんですね」
風見の言う通りこのままでは部下の士気も下がり、加えセクハラで訴えられ兼ねない状況である。翌日のニュースに【警察庁にて29歳男性・部下にセクハラ。無理やり接吻を】というテロップまで思い浮かんだ。いや、訴えられても仕方がない。それぐらいのことをしたと昨晩猛省した。
未だ物陰に隠れてこちらの様子を伺っている夢野に降谷は遠目から話しかける。
「夢野、すまなかった。昨日は、その…寝不足でどうかしていたんだ。君に許可も取らず、失礼なことをした」
ちょっとずつ、体が物陰から出てくる。
人馴れしていない猛獣を手懐けた気分だった。それも悪くない、と思ってしまう。
「君に、嫌われたくないんだ。許してくれとは言わない。せめて今まで通りに…」
両手に書類を持っておずおずと出てくる。少し恥じらいながら降谷の元へ近づいてくる彼女に降谷は堪らず抱きしめたい衝動に駆られる。しかしそこは我慢だ、と地に足を縫い付ける。
「ハンコを…ください…」
そうか。ずっと、ハンコが欲しかったのか。それで朝から夕刻の現時刻まで僕に張り付いてたんだな。と降谷は目を閉じ感慨に浸る。暇なんですか?公安…と工藤新一の声がどこかで聞こえてくる気がしたが気にしない。
「君にも、押してもらいたいものがあるんだ」
「なんでしょうか…?」
「これに印を…」
出した婚姻届けに、ずっと傍らで見ていた風見は「そういうところです、降谷さん」と横から押収される。
重症なんですね、降谷さん
さらに翌日。
捜査会議が終わり一人会議室で、はぁーと長い溜息を吐きながらぽつんと座る同期に風見は心底同情の目を向ける。
「大丈夫か」
そう声をかければ彼女は死んだ魚のような目で風見を見た。目の下のクマに、仕事以外での寝不足が伺える。
「あの人…こわい…」
ポツリと言った言葉に風見も否定できなかった。降谷は部下にも己にも仕事に厳しく、新人からは大層恐れられる存在であり、よく口にされる言葉だが彼女の言うWこわいWは違う意味だろう。
「あの人…あんな人じゃなかったよね…?」
「君のことになると、少しおかしくなるようだ」
こんなこと誰かに聞かれては懲戒免職ものだろうか。しかしそれよりも同期のこの憔悴ぶりが心配だった。風見の返答にまた彼女は、はぁー…と深い溜息を吐いた。
「好きなのに、素直になれない」
その言葉に風見の眼鏡にヒビが入る。実際には入っていないが、それほど衝撃的な発言だったということをわかってもらいたい。
ずり落ちた眼鏡を上げ、風見は再度血迷っている同期に声をかける
「ちょっと聞こえなかった」
動揺で声が裏返ってしまう。これでよく公安が務まるな!と今のあんたにだけは言われたくないセリフを心の中で上司が言う。
「好きなの」
風見の眼鏡は爆発し、バラバラと崩れ落ちる。実際には爆発など起こしていない。それほどまでに…(上記参照)
「そうか」
風見は心底理解は出来なかったが、同期の幸せと上司が幸せであればそれでいいではないかと無理やり思うことにした。
「伝えないのか」
「は、恥ずかしくて…これ以上近づいたらジャーマン・スープレックスかけちゃうかもしれない」
「普通の女はそんなことしない」
お前、柔道とレスリングだろ。なんでプロレス技なんだ。
「それにあの人は強い。君のそんな所も受け止めてくれるさ」
まず技をかけることができたらの話だが。片手だけで犯人を伸せる人だしな、と先日のパレード警備で起こった犯人撃退の現場を思い出す。
背中を押してやれば彼女はやっと少し笑ってくれた。今から言ってくる、と切り替えの早い彼女は立ち上がる。すると話を立ち聞きしていた(いつからいたんだろう)上司が少し頬を赤く染めながら夢野に近づく。立ち聞きは野暮だろうと風見はその場を離れる。
次いで聞こえたドシンッ!!という大きな音。地震でも起きたのかと思わせる揺れに風見はまさかと部屋を覗き込む。
そこには背後から両腕を腰に回され、反り投げされている上司の姿が。
ブリッジした夢野にフォールを奪われている彼を見て、風見は眼球が飛び出してしまうほどの衝撃を受ける。
冗談でもジャーマン・スープレックスを喰らう上司の姿を拝める日がこようとは誰が思うだろうか…。この人、彼女が絡むとおかしくなるの忘れてた、と落ちた眼鏡を拾う。一応注意書き貼り付けて置くか。
※注)特殊な訓練を受けた人たちで執行しています。素人行為は大変危険ですのでお辞め下さい。
風見は「私は何も見なかった」と眼鏡を掛け直し、その場を後にする。
後日、高い位置で互いの手と手を合わせ、またしてもプロレスでよく観られる、謂わゆるW手四つ力比べWをしながら廊下を歩いている二人の姿に風見は違う意味で涙する。
皆さん、寝てください
終わって!
2020.3.18