短編集
□彼の癖
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トン…トン…トン…
あっ、始まった。
夢乃は目の前に座る安室透をカフェラテを飲むフリをしてチラッと盗み見る。考え事をしているとき、彼は必ず人差し指が動く。
顎に手を当てているとき、
腕を組んでいるとき、
ハンドルを握っているとき、
している時間はとても短いのだが、付き合いだしてから彼を観察している内に気づいた癖だった。
その仕草をしている時に話しかけるとほんの数秒、反応が遅れる。そのことが分かってからその仕草をしている間は話しかけるタイミングをズラすようにした。探偵をしている彼はきっと平凡な自分では想像だにしないことを考えているに違いない。
彼に恋をしてから毎日と言っていいほどポアロに通い詰め、優しい笑顔を向けられる度、バクバクと心臓が脈を打った。
昔から引っ込み思案な性格の自分は特にこちらから話しかけたりも出来ず、客と店員の関係が続く。
ある日彼から「付き合いませんか?」と唐突に言われた時は驚いて持っていたカップをひっくり返してしまった。
「す、すみません…!」
慌てて自分のハンカチで溢してしまったコーヒーを拭く。
今彼は何と言ったのだろう。
付き合う?聞き間違い?
ぐるぐると先程の言葉が頭の中を駆け巡る。白いハンカチがじわじわと茶色に染まっていった。
フキンを持って彼が背後に来たのが影でわかる。緊張して彼の方を向くことが出来ない。テーブルを拭く手が緊張で震える。スッと彼の手が重なり、ビクッと小さく跳ねる。
彼の手が夢乃の手を優しく握った。
真っ赤な顔で彼を見る。
真剣な、でもどこか緊張しているような瞳が夢乃を捉えていた。
「返事…きかせて?」
優しい声色。眩暈がする程にときめいてしまう。もちろん断る理由などなく、こくり、とゆっくり夢乃は頷いた。
一ヶ月が経った。
彼は待ち合わせした喫茶店にもう来ており、コナンに勧められたという推理小説を読んでいた。読み応えがあり、とても面白いのだと以前話してくれた。
夢乃に気づいた彼は一旦本を閉じようとするがそれを手でやんわり制する。
「映画の上映時間までまだ余裕があるので、どうぞゆっくり読んでいてください」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
その会話をしたのが数分前。左手で本を持ち、右手はコーヒーカップの取っ手に指を掛けたまま止まっている。その指がトン…トン…と取っ手を叩きだした。
夢乃はその仕草が大好きだった。その間、少しでも長く彼を見つめることができるからだ。
「どうしました?」
視線に気づいた彼が本から目を離し夢乃を見る。
「な、んでもありません」
咄嗟にふいっと俯いてしまう。一ヶ月経ったとはいえ恥ずかしさで未だ彼と目を合わせることが出来ないでいた。キスでさえ、顎に手を添えられた瞬間にきつく目を閉じる始末である。
「・・・・」
なんとなく視界の隅に映る彼が本に視線を落とさずジッとこちらを見ている気がした。目のやり場に困り、彼の手を見つめる。するとトン…トン…とまた人差し指が動き出す。夢乃を見て何か深く考えているようだった。耐えきれず夢乃は口を開く。
「あ、の…安室さん」
「別れ…話、ですか?」
えっ?と思わず顔を上げる。
「付き合ってからずっと僕と目を合わせてくれませんよね…」
キスの時でさえ…
ぼそりと言った彼の言葉に顔が熱くなる。
「嫌いになりましたか?」
その言葉に夢乃は身を乗り出し「違います!」と大きな声で訂正した。
こんな大きな声を出したのも初めてだったし、彼とこんな間近で目を合わせたのも初めてだった。
店内にいる客が夢乃の大声に騒めく。安室も驚いた顔をしていた。
ハッと我に返った夢乃は顔を真っ赤にしながらおずおずと体をもとの位置に戻す。
羞恥心で体が溶けそうだった。
いっそのこと溶けてこの場から消えてしまいたかった。
真っ赤な顔を両手で覆う。もうどうにでもなれ、とそのまま「好きです」と言った。
「出会った時からずっと…好きだったんです。嫌うなんてこと…」
あるわけがない。
彼の誤解を解きたくて、公開処刑覚悟でそう口にする。
「・・・・」
何の反応もない彼に不安になって覆っていた手を少しだけ下にズラす。
途端夢乃はパチリ、と目を瞬いた。
「あ…の…?」
「いま、は…こっちを見ないで…ください…」
片手で顔を覆い、顔を背けている彼は耳まで真っ赤だった。いつも余裕のある彼からは想像出来ず思わず見入ってしまう。失礼かもしれないがそんな彼の姿を可愛い、と思ってしまった。
「よかった…嫌われたとかじゃなくて…」
ハァと安心したように溜息を吐く彼に夢乃は目を開く。なんで、こんな当たり前のことに気づかなかったのだろう。自分のことしか考えていなかった。言わなくても全部伝わっている気でいた。自分は彼をなんだと思っていたのだろうか。そして今気づいたことがある。自分は一度も彼に好きだと伝えたことがなかった。会う度いっぱいっぱいでそんな大事なことに気づかなかった。その上あんな避けるような態度を取って…。これでは誤解されても仕方がない。ちゃんと、言おう。彼を不安にさせないためにもきちんと言葉で伝えよう。
「安室さん、大好きです」
おわり
2020.5.26