短編集
□言葉にして教えて
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夢野夢乃は小学生の時に転校してきた。物静かな子で、あまり話したことはなく、人と接するのに少し距離があるような子だった。
ある日のこと。あれは校庭でフォークダンスの練習をしていた時だった。皆恥ずかしがったり、嫌がったりと様々な反応を見せる中で、彼女は静かに自分の手を握った。ふと、彼女の背に毛虫が付いているのが目に入る。
あっ、毛虫。と胸の内で思ったところで彼女がいきなり降谷の手を振り払った。
「うそ!やだ!とってとってとって!!」
いきなり騒ぐものだから皆、練習を中断し視線を彼女へと注ぐ。自分も呆気に取られてしまった。だが、すぐさま校庭に落ちていた小枝を拾ってくる。
「騒ぐなよ。今取ってやるから」
「うぅー…やだよー」
「毛虫だって生きてるんだ。そんな嫌がったら可哀想だろ」
枝に乗せてあげ、ソッと地に帰してやる。
「あ…ありがとう」
顔を真っ赤にして、涙目になりながら言われた礼は降谷の心をほんのちょっとこそばゆい気持ちにさせる。
「…別にこんなの僕は平気だし」
そこでふと、違和感に気づく。自分は今毛虫が付いていることを声に出しただろうか。疑問を口に出せぬまま、練習は再開されてしまう。気付かぬうちに声に出していたのかもしれない、とそう自分に言い聞かせた。
中学に上がり、委員会の集まりにあの夢野がいた。何となく彼女の後ろに座り、その背をジッと見つめる。着ているセーターに小さな虫が付いていた。ふと小学校の時の記憶が蘇る。
当時を振り返りながら前から流れてきたプリントを彼女から受け取る。その際に軽く手が触れた。また騒がれる前に取ってやるかと貰ったプリントで軽く払おうとしたところでビクッ!と彼女の体が大きく跳ねる。座る椅子が大きく揺れ動いた。
「どうしたー?夢野」
静かな教室で立てた物音はやけに響きわたり、先生が彼女に声をかける。
「な、なんでもありません」
すみません、と次には肩を竦め前を向く。呆気に取られている降谷に対し、彼女はチラッと肩口から視線を送った。
「ふ…ふるやくん」
涙目である。蚊の鳴くような声で「…取って」と懇願してきた。降谷は確信する。自分は今一言も発していない。そして彼女から見える範囲に虫は決して映らない。
「お願い…」
真っ赤な顔で、哀願する彼女。意地悪するつもりはないが彼女に少し身を寄せ、囁くように言葉を発した。
「取ってやるから、その前にひとつだけ教えてくれ」
彼女の顔から畏怖が混じった焦燥感が滲み出る。虫を早く取って欲しいのもあるのかもしれないが、その表情から察するにこれから訊く内容は恐らく彼女にとって最悪なことなのかもしれない。
「僕の考えてることがわかるのか?」
目を丸くする彼女。次にはサッと視線を横に外したことで夢乃が嘘を付こうとしていることがわかった。
「う、動く気配がするだけで…毛虫ってわかったわけじゃあ…」
「僕は一言も君に毛虫が付いてるなんて言ってない」
「じゃあ、なんであの時のこと…」
衝いて出た言葉にしまった、と口を押さえる彼女に降谷は内心ほくそ笑む。
「ほら、早くしないと虫が服の中に入るぞ」
嘘だ。一ミリも動いてない。
「そ、そうです!相手の手に触れるとわかるんです…!」
だから取ってください降谷様…!と頭を下げる彼女に思わずぷっ、と吹き出してしまった。どうやら彼女は虫が相当苦手らしい。
「触れただけでわかるのか?」
彼女と帰ったのは後にも先にもこの一度だけ。
「うん。あっ、でもお互いの手同士じゃないと聴き取りづらい…かな」
「試しても?」
「うん。いいよ」
差し出した右手を彼女は控えめに握る。頭の中で明日の数学のテストのことを思い浮かべた。
「えっ!降谷くんのクラス、明日数学の小テストあるの?」
うちのクラスなにも言われてない、と小テストがあることに驚嘆している彼女だが、こちらは別の意味で驚いている。
「本当にわかるんだな」
「あっ…ご、ごめんね。気持ち悪いよね。もうあまり触らないようにするから」
慌てて手を離し、肩を落とす彼女。少々距離のある接し方も、小学生の時にいきなり転校してきたのも、彼女はその能力のせいで以前の学校では何かしらの苦労があったのかもしれない。
「…僕の夢は警察官なんだ」
地面に落とされていた視線は降谷の突然の言葉に上を向く。
「いつか君に捜査協力を頼みたい」
彼女の目が徐々に輝いていく。心が読めなくともキラキラと光だしたその瞳に彼女が喜んでいることがわかった。
「ぜひ、その時は思う存分に使って!」
初めてみる、その破顔させた表情に心は動く。可愛いと思ったことに、今は手が触れていないことを心から安堵したーー…。
彼女とはそれきりで、委員会が終わればクラスの違う彼女とは話す機会も無くなり、高校も別だったために、徐々に疎遠となっていった。
数年後。ひょんなところで再会を果たす。既にポアロの常連客であった彼女は降谷を見て酷く驚いた顔をする。そして降谷の名を口にした彼女に人違いであることを告げる。
「はじめまして、安室透です」
マスターや梓もいない。客もちょうど最後の一人が会計を終え今し方帰ったところだった。その入れ違いに入ってきた彼女は降谷零にそっくりな安室透に固まっている。
「えっ、あ、あむろ…さん?ですか」
他人の空似であることにがっかりした様子を見せながらも記憶の中にいる降谷零はこんなニコニコと笑う人間ではなかったのだろう。物珍しいモノでも見るかのように安室透の顔をジッと見つめてくる。そんな彼女に右手を差し出してみる。いきなり握手を求めてきた店員に彼女は躊躇いがちにもその手を握ってくれた。
『久しぶり』と心の中で呟けば彼女の目が中学の時と同じようにキラキラと輝きだす。その表情に、咄嗟に抱いた気持ちはキスがしたい、だった。何故よりにもよって握られている時にそんなことを思ってしまったのか。案の定彼女の顔は赤面し、パッと手を離してしまう。
しまった、と後悔する。久々に再会した人間がこんなことを思っているなんて身の危険を感じるだろう。引かれて当然だった。
「悪い、今のは…」
「ふる…あ、あむろ君でいいのかな?」
弁明しようと開いた口はポカンと開いたままになってしまう。
「状況の飲み込み早過ぎないか?普通はもっと戸惑ったりするだろ」
「た、たくさん、勉強…したの。すごく…その…嬉しかったから。中学の時にした貴方との約束をちゃんとした形に出来るよう、その手の本をたくさん読んだ」
キスがしたいと思った人間にも関わらず彼女は戸惑う降谷をよそにきちんと応えてくれた。訊いた事実に、真剣にあの時の約束を守ってくれていたのだと思うと純粋に嬉しかった。
「って、こんなことが言いたいんじゃなくて…」
言葉に詰まりながらも、ゆっくりと話してくれる彼女に取り敢えず嫌われてはないようだと安堵する。
「あむろ君の…声ってね…」
服の裾を握りしめ、視線は床へと落とされる。そのせいで彼女の表情がよく見えない。
「とくに…その…凄くはっきりしてるから、声に出してるのかと…勘違い、する……」
困り眉でちらりと見上げたその目は涙目で、耳まで真っ赤な彼女にふと、昔の記憶が蘇る。
すぐ顔が赤くなる子だと思ってた。
涙目になるのは虫が嫌いだからだと思ってた。
マジマジと観察する降谷に困惑した表情を浮かべてはいるが彼女の仕草は自分に好意がある人間のそれだった。
もしかして、ずっと慕ってくれていた?
自分でも驚くほどに舞い上がっていることに気づき、あぁ、なんだ。自分もずっと彼女のことが好きだったのかとようやく己の気持ちに気づく。
「なんて思ってた?僕は」
意地悪で訊いてみる。彼女の肩が揺れる。ゆらゆらと揺れる瞳になんでそんなこと訊くのかと書いてある。みるみるうちに溜まる涙を見て、成る程、恥ずかしいと生理的に涙が出る体質なんだな、と心は冷静に彼女を分析している。
「教えて」
顔を覗き込むようにして近づければ、彼女はギュッと目を閉じてしまった。同じように閉じられたその唇をマジマジと見つめる。
無防備だな。そのまま吸い寄せられるように重ねた唇。途端ビリビリッ!と脳に電流が走り、頭の中に誰かの声が流れ込んでくる。
『キ、キス!?…えっ!キス!?』
驚いてパッ、と唇を離す。当たり前だがいきなりキスをした降谷に同じく驚いた顔の彼女が自分を凝視している。構わずもう一度唇を重ねてみた。
『ひ、ひぇ!に、二回目?まだ好きって言えてないのにー!』
ぷっ、と唇を重ねたまま思わず笑ってしまう。キスは初めてではない。しかし声が聴こえるのはこれが初めてだ。ならこれは彼女のもう一つの能力、なのか?いきなり笑った降谷に困惑な表情を浮かべている彼女はその事実を知らないようだった。
唇が触れ合うと自分の気持ちが分かってしまうなんて。
そんなことを君が知ったら涙目になるどころじゃないな、なんて思いながら降谷は三回目のキスを迫ったのだったーー…
おわり
2020.11.10