短編集
□good night ⑵
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ひょんなところで事件に巻き込まれ、沖矢昴の正体を知ってしまった自分は今人生最大の選択に迫られている。
いや、今思えば選択も何もなかった。
「奴らに気づかれたくなければ正体を隠し俺と兄妹を演じる他無さそうだな」
沖矢昴の顔で、でも声は赤井秀一で…。彼はある日、自分にそう告げたのだったーー…
深夜、コンビニの帰り道。ふと、地面に黒い点々とした丸いシミを見つける。まだ乾いていないそれは路地裏へと続いていた。
何となく気になってスマホのライトで地面を照らし、目を凝らす。黒いと思っていたその液体は赤色であった。
「血…?」
もしかしたら犬や猫が怪我をしたのかもしれない。路地の奥へと続くそれに、普段ならこんな時間帯にこんな暗いところ絶対に通ったりはしない。しかし怪我をしている動物を放っておく訳にもいかず、ゴクリと生唾を飲み込んだ後、意を決してライトで地面を照らしながらその血の跡を追う。
カタンッーー…
小さな、物音。反射的に夢乃はスマホを物音がした方へ向ける。
「ッー!」
思わず声を上げそうになる。そこに居たのは動物ではなく人だった。帽子を目深に被っていて顔は分からないが体格からして男だろうか。背中を壁に預け、黒い服に身を包み、ぐったりとしているその男はどうやら傷を負っているようだった。
「だ、大丈夫ですか⁉い、今!救急車を…!」
阻むように掴まれた手。べったりと付いた血に夢乃は血の気が引いた。
「だ…い、じょうぶです…から」
「だ、大丈夫なわけないじゃないですか⁉」
男はもはや声を出すのも辛いのだろう。首を横に振るだけだった。こちらを安心させる為なのか定かではないがその笑った口元を見ても、かなり無理をしているのが分かった。
「少し、したら…仲間が…きます、から…あなたは…」
夢乃を遠ざけようとするその言葉にどうやら自分にはここに居て欲しくなさそうだった。夢乃は彼が手で押し当てている腹の部分に目を向け、顔を顰める。
「わかりました…もう、何も言いません」
夢乃は踵を返し、その場を立ち去ったーー…。
狙撃手の存在に寸前で気づいたものの、完全に弾を避けるまでには至らなかった。腹に掠ったそれは思いの外、出血がひどい。まさか一般人に血の跡を辿られてしまうとは…。一生の不覚である。
「くっ…」
公安の人間がもうすぐ来る筈だ。それまで何とか凌げれば…
こちらに向かって来る足音に顔を曇らせる。風見はこんな足音は立てない。素人の動きだということだけはわかった。まさか…
「よかった…!まだいた」
額に汗を滲ませ、先程は持っていなかったビニール袋を逆さにして乱雑に中身をぶち撒ける。包帯やら消毒液やらと出てきたそれに目を張った。
「服、破りますよ」
否応なしに服に手をかける女に降谷は困惑する。何故戻ってきた。先程はあんなに狼狽ていたというのに…。どう見ても堅気では考えられないこの傷と血を見て何も思わない訳があるまい。普通なら関わり合いを避け、その場から逃げ出す筈。
「わ…ざ、わざ…買って、来たんですか…?」
「喋らないで」
傷に障ります、と彼女は降谷を気遣った。とんだお人好しもいたものだ。素人臭さはあるものの、彼女は手当てに慣れているようだった。応急処置が終わった彼女は何も訊かずに血の付いたガーゼをビニール袋の中へと仕舞う。彼女の手にも降谷の血が付着していた。
「お仲間の方…本当に来てくれるんですよね?」
お仲間の方…。完全に族のそれだと思われている。丁寧な言い方に笑ってしまいそうになる。この人、泥棒にさん付けするタイプだな…なんて、貧血でぼんやりする頭はそんなことを思った。
「えぇ、もう…きます…」
「そうですか。では、私はここで失礼しますね」
「ありがとう。おやすみなさい」
夜も深まる時間。そんな降谷の言葉に、彼女は可笑しそうに、けどほんの少し困ったような顔で優しく微笑んだ。
「えぇ、おやすみなさい。黒服さん」
今思えば、僕はその時から彼女に惹かれていたんだと思うーー…
「こんばんは…はじ…⁉」
宅配業者を名乗り、沖矢昴の正体を暴く為、工藤邸を訪れた安室は出てきた女性に言葉を失う。固まっている自分を不思議に思ったのか彼女は首を傾げている。当たり前だ。数年も前の話。覚えているわけがなかった。それにあの時は顔を見られまいと帽子を被っていたし…
「どうしました?」
奥から出てきた沖矢昴に、本来の目的を思い出す。そうだ。しっかりしろ。こんなことで動揺している場合ではない。
「あっ、お兄ちゃん。それが…」
「お…お兄さん?」
まさかのワードについ声が裏返る。
「えぇ、彼女は私の妹ですが…何か?」
「失礼ですが、貴女のお名前は?」
「沖矢…夢乃です…けど…」
なんてことだ。まさかお人好しが過ぎて事件に巻き込まれた挙句、彼の妹を演じなければならなくなった、とかじゃないだろうな。
「待って。貴方、その…声…どこかで…」
彼女もまた何かに気づいたようだ。徐々に開かれていく目に期待が胸を膨らませる。しかし今日は公安の人間も引き連れて来ている。当初の目的を再度頭の中で明確にし、安室は浮ついた思考を取り払った。
「とにかく少し話をしたいんですが…中に入っても構いませんか?」
「なら、お茶の準備を…紅茶でいいですか?」
「え、えぇ…」
あっさり家の中に入れようとする彼女にそんな警戒心で大丈夫かと、ついつい余計な考えを巡らせてしまう。自分がいうのもなんだが、宅配業者だと名乗った男が荷物の一つも持っていない時点で誰も不審に思わないのだろうか。
すると彼女はハッと何かに気づき、こちらを振り返った。
「それともコーヒーの方が?」
「……紅茶でお願いします」
ペースを狂わされる。彼女が気になって沖矢昴の存在が霞むほどだった。
結局その日は江戸川コナンと赤井秀一に一杯食わされ、正体を暴くには至らなかったが、あの男の妹だという夢乃ならボロを出すのではと、事あるごとにデートに誘った。
「夢乃お姉さんのことデートに誘い過ぎじゃない?」とあの少年に言われる程だったが、これも沖矢昴の正体を明かす為。赤井秀一を組織に売り渡す為だ。
彼女もあの時の男が自分かどうか気になっているようで、数回に一度、その誘いに応じてくれた。彼女にだけとくに優しく、特別に接していくうちに、彼女もだんだんと心を開いてくれるようになった。しかし沖矢昴のことに関しては一切口を滑らせなかった。なかなかに手強い。次のデートが勝負だった。
そして今、彼女が好きだという水族館に来ている。ゆらゆらと漂う魚。大きな水槽を見上げ、その揺らめく世界に引き込まれている彼女の横顔をジッと見つめる。人の波が去り、そのフロアは自分たちだけとなった。
「好き…です…」
しまった、と口を噤む。いつの間にか勝手に口が動いていた。いやいや何を言っている。これも計画のうちだろ。当初の予定通りのはずだ。バクバクと煩い心臓は、ここ最近の寝不足のせいだ。
「…っ…」
水槽の光で青く反射した瞳がこちらを見る。彼女の手を取り、もう一度口にした。
「僕と…付き合ってください」
これは演技だ。本気で彼女を愛してるわけ…
「はい…よろしくお願いします」
つい、抱きしめてしまった。君が嬉しそうに、幸せそうに笑ったからなんかじゃない。安室透ならこうすると思ったからだ。
「すごく、嬉しいです」
背中に回る彼女の手。キュッと心臓が痛いぐらいに締まる。その言い訳を必死に探した。
彼が素直になるには、まだほんの少し先のようだったーー…
end
2020.1.24