短編集

□鼓膜に刻む
1ページ/1ページ



上司が提出した報告書に目を通している間。ふと目に入ったのは彼のデスクの上に置いてあるデジタル時計。示す時刻に思わず、あっ…と心の中で声が漏れ出る。微かに上がっている口元に気づき慌てて下げる。そして何事もなかったかのように視線を戻すと伏目がちに文面を追っていた上司とちょうど目が合った。

「どうし…」

「なんでもありません」

しまった。動揺して食い気味に言葉を被せてしまった。不自然な自分に降谷の綺麗な眉が片方山なりに上がる。

「その時計がどうかしたか」

さすが尊敬する我が上司。こちらを見ていないようでよく見ている。気づかれないようにしていたつもりだったのだが、些細な目の動きでさえ、彼には全てお見通しなのだ。

「いいえ、なんでもありません。立派なデジタル時計だと思っただけです」

立派なデジタル時計とはなんなのだろうか。自分で言っておいて理解しかねる。

「欲しいのか?」

「え?」

「物欲しそうな目をしていた」

え、私そんな目してました?

出かかった言葉を飲み込んだのは、上司がデジタル時計を持ち、くれようとしていたから。

自分が立派なデジタル時計だと変な嘘をついたばかりに彼に余計な気を使わせてしまった。ちゃっかりもらおうとしている自分の手の甲を後ろ手でつねる。しっかりしろ。仕事中だぞ。

「いえ、結構です」

「そうか」

再びデスクの上に置かれたデジタル時計。あー…せっかくのチャンスだったのに…と多少の後悔を抱きながらも、これでいいのだと、己に言い聞かせる。何故ならこの気持ちは決して彼に知られてはいけないからだ。

「予定でもあるのか?」

執拗に訊いてくる降谷に夢乃は数回瞬きをする。ここまで気にする彼も珍しかった。確かに今日は元々休みであり、彼の指示で急遽ここ本庁に出向いている。それを気にして?いや、しかし急な呼び出しはこれまでに何度もあったし、自分も公安である以上仕方のないことだと割り切っている。むしろ彼に会えるのであればたとえ深夜に呼び出されても苦ではない。

それに今日は報告書を提出したら家に帰るだけだ。何も予定はない。自分よりも忙しい上司にこのまま家でゆっくりするつもりです、なんていうのも気が引けたが見栄を張る場面でもないと思い直し、素直に口にする。

「このまま家に帰るだけです」

「ふーん…」

彼の顔は未だ納得していないようだった。表情を見るに作成した報告書に不備があるわけではなさそうだ。しかしこの会話を終わらせなければ上司からの捺印をもらえそうにない。その印がなければ帰ることが出来ない。自分はそれでもいいが、こんなことで忙しい彼をここに縛りつけるのも気が引けた。

「お、怒りませんか?」

「内容にもよるが…僕が怒るようなことなのか?」

仕事中に余計なことを考えていたのだ。怠慢だと言われても仕方がないだろう。

「そうですね」

「ますます気になるな」

手に持っている報告書をデスクの上に滑らせるように置いたあと、彼は腰を上げ、デスクに手をつく。体を前に夢乃に詰め寄るものだから、その近い距離にくらくらと目眩がする。澄ました顔を心がけてはいるが彼のまっすぐな瞳に見つめられ、心臓は煩いくらいに跳ね上がっている。

「……」

「……」

全く引く気のない彼。小さく弧を描く彼の口元を見て、何故だか楽しんでいるようにさえ見える。仕方がない、と夢乃は肩を下げて再度デジタル時計に視線を向ける。

「時間が…誕生日の日付と一緒になると…どうしても意識してしまって…」

「は?」

は?と言われてしまった。当たり前だ。消えたくなる。肩を狭くして夢乃は申し訳なさそうに首を折る。

「すみません…。余計なことを…」

「君の誕生日は違う日だろ?」

「え?」

降谷の言葉に瞼を瞬かせる。

「部下の、誕生日…全員覚えているのですか?」

「そんなわけないだろ」

それではまるで自分だから覚えているとでもいうようだ。自惚れてしまいそうになる。顔が熱い。キュッと唇をきつく結び感情を隠す。そんな自分を他所に彼は「で?」と首をコテン、と横に倒した。

「二分前の時刻を見て、君は一体誰を意識したんだ?」

にやりと笑う彼にもうバレているのでは…と背中に変な汗が伝う。だが言えない。これは特殊なルートで手に入れたものなのだ。吐けば公安失格。教えてくれた風見先輩にも迷惑がかかるかもしれない。

「言えません」

「気になるな」

「え…?」

「君が思わず集中力を欠いてしまうほどの人物に、さ」

「ふ、降谷さん、もう私の話はいいので…それより報告書にサインを…」

「なぁ…」

話を逸らそうとしても無理矢理戻される。彼がデスクから離れ、こちらに近づいてくる。一歩一歩、距離を詰める度に自分の脈が速くなっていく。

「仕事中、君にそんな顔をさせるなんて…どんな男なんだ?」

「ど、どうして男性だと決めつけるんですか」

この恋心に気づかれて仕舞えば、異動もあり得る。彼の元で働けなくなってしまう。

「わかるさ」

どうしてそんな悲しそうに眉を下げるのですか。

「君の表情を見ていればわかる」

「…っ…」

「てっきり君は、僕に気があるんだと思っていたんだがな」

「は…え…?」

は!?と彼を見たまま固まる。

「呼び出すときはいつも嬉しそうであったし、僕と話す時は他の人より声のトーンが少しだけ上がる。目もよく合うし、今日だって、」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「なんだ」

「私って普段…そんな風…ですか?」

「あぁ」

「あぁ!?」

嘘でしょ?隠しきれていなかったなんて。表情を読み取られてしまってはそれこそ公安として失格なのではないだろうか。一気に仕事に自信がなくなり肩を落とす。

「どうやら僕の勘違いだったようだな」

すまない。と同じように肩を落とす彼にハッと顔を上げる。悲しそうに細められる瞳を見て、誰が黙っていられようか。

「勘違いなんかじゃ、ありませんよ」

あぁ、言ってしまった。もう後戻りは出来ない。

「貴方を…想って、その時計の時刻を見て、いました」

彼の目が驚いたように開いていく。しかし次には険しい顔つきへと変わってしまった。その表情に夢乃の心はズシン、と重くなる。やはりこの気持ちは迷惑だったのだ。

「も、申し訳…」

「違うぞ」

「え…?」

「僕の誕生日は全然違う日だ」

「……」

えぇーー…と体が砂と化しさらさらと崩れる。互いにしばし無言で見つめ合った後、彼はぷっ、と吹き出した。次には優しく目尻を下げ、嬉しそうに微笑む。

「君にだけは特別に教えよう」

降谷の手が伸び、耳の輪郭に指の側面が触れる。彼の指が自分に触れているというだけでそこの部分が熱くなった。スリッと彼が指先を動かせば、体はぴくっと小さく跳ねる。

「耳が真っ赤だな」

ふっ、と優しく笑った後、端正な顔立ちが近づいてくる。キスをされると身構えたが、彼の顔はあっさりと通り過ぎてしまう。しかし耳にかかる吐息に思わず体が震えた。柔らかい感触が耳に当たる。

「僕の…誕生日は…」

生まれた日付をその耳に刻むように、押し当てられた唇がゆっくりと動く。

そして彼は言った。必要な書類に書くことはあっても自分の口から教えたのは親友以外で君だけだ、とーー…






「風見さん、この間あげたレアアイテム返してください」

スマホ画面を横にしてゲーム画面をタップしている自分の隣で同じくスマホを横にして指を動かす先輩にそう低く呟く。顰め面で画面を覗く自分に対し、彼は涼しい顔をしていた。

「どうしてだ。君の欲しい情報と引き換えだっただろ」

「誤情報でした」

「と、いうことは本人に本当の誕生日を聞けたんだな」

くっ、と悔しそうに唇を噛むと彼はニヤリと笑った。わざと嘘の情報を流したのだと漸く理解した。

「私は先輩の手のひらの上で踊らされていたというわけですか」

調子に乗ってサンバぐらいは踊ってましたよ、と言えば先輩は可笑しそうにカラカラと笑った。

「あの人が自分の情報を晒すようなヘマするわけないだろう。でも、良かったじゃないか」

付き合えて、と嬉しそうに祝福してくれた先輩の言葉を素直に受け取ることが出来ず、ありがとうございます、と下顎を前に出してお礼を言ったのだった。



おわり
2021.2.28


次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ