短編集

□体だけの関係かと思ったらそうじゃなかった話
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赤井夢

会社の飲み会の帰り。なんとなく飲み足りず、行きつけのバーで酒を飲んでいると久しい人物に遭遇する。チャイムタイプのドアベルが揺れ、澄んだ音色を奏でながら入ってきた男にしばらく目が釘付けだった。

この店は飲屋街から少し離れており、看板はなく、地下階段を降りないと店自体あるかどうかもわからない、まさに隠れ家のような店で。常連客しか来ないようなその場所にまさか彼が訪れてこようなどこれっぽっちも予想していなかった。

面影あるその顔にすぐ赤井秀一だと気づいたけれど最後に会ったのはもう20年以上も前のこと。その上、自分は親の仕事の都合で一年間彼と同じイギリスのスクールに通っていただけで、何かと目立っていた彼とは違い、目鼻立ちが良いわけでも、とくに成績が良かったわけでもない。そんな平凡の中の平凡な自分を彼が覚えているとも思えず、声は掛けなかった。

しかし店内は非常に狭く、席はカウンターテーブルのみ。バーチェアの後ろは人一人がやっと通れるほどの幅しかない。そんな狭い空間で少年期より色々ご成長の見られる彼と同じ空間にいるなんて気にならないわけがないわけで。

いっそ身の程知らずにナンパでもしてみるか。いやいや、こんな下心を抱えて話す話術など待ち合わせていない。相手にされないのが落ちだ。学生の頃に抱いていた淡い恋心が自然解凍し始めたところで、早々にチェックすることを心に決めた。

こくん。名残惜しそうに最後の一滴が喉を通り、席を立つ。

「なんだ、もう帰るのか?」

声変わりした彼の声を聞くのは初めてで。なんだか知らない男の人に話しかけられたよう。
まるで深い森に誘われているような緑色の瞳がこちらを捕え、離さない。金縛りにあったかのように体は硬直してしまった。

まさかそんな。おぼえて…?

そんな疑問をぶつけたかったのに、緊張やらなんやらで言葉が出ない…。揺れる視線が交差する中でふとあることに気がついた。

「えっ、秀一くん目の下の隈すご」

もっと他に言うことあっただろう。久々のしかも初恋だった相手だぞ。何が言葉が出ないだこの酔っ払いと自分自身を詰っていると彼がフッと軽く笑った。その顔は学生の頃のままで。けれど目尻に作られたシワに、時の流れを感じた。

気づけば再び腰を下ろし、嬉しいことに自分のことを覚えてくれていた彼と昔話に花を咲かせていたーー。



起きたら見知らぬ天井に慌てて起きる。緊張をほぐす為に何杯か飲んだ記憶はあるが肝心の帰った記憶がない。すぐ隣にいる赤井秀一と目が合い、汗が止まらない。一糸纏わぬ互いの姿を見て、一夜を共にしたのは明らかだった。

その日を境に彼とは度々バーで会っては体を重ねる関係が続く。一度体を許してしまえばその境界線は曖昧になってしまうわけで。
歳を重ねていくにつれて、直接付き合おうなどと言葉にする人は少なくなっていくが、彼から好意のある言葉やそういった態度がないところをみると今の関係は恋人同士とは程遠いものだった。

しかしそれにホッとしている自分もいる。付き合うことよりも付かず離れずの関係のほうが自分にとっても楽だった。
割り切ってしまえば、気まぐれに返ってくるメッセージにもヤキモキすることはないし、こちらのことは聞いてくるくせに自分の身の上話は一切しないことにも別に不服には思わない。

それよりこちらの話を聞きながら時折り打つ相槌に合わせて微かに上がる口角や、たとえ一時でも熱の籠った眼差しを独占している瞬間があると思うだけで心は満たされていた。それだけで十分だった。それが心地よかった。

昔の恋焦がれた気持ちが溶けて見え出してしまうこともあるけれど、所詮は初恋。若かった時とは違う。

そんな日が続いたある日、彼から突然こんなメッセージが送られてくる。

【暫く会えない】

普段からあまり会う頻度もそんな多いわけではないのにわざわざこんな連絡も珍しいものだと悠長に構えていたら、その日を境にパッタリと連絡が途絶えてしまった。数ヶ月ほど経ってようやく関係を終わらせる為の彼なりの遠回しなメッセージだと気づく。

ほらね。やっぱり。と自嘲する。本気にならなくてよかった。危うく心に大怪我を負うところだった。

「最近よくお会いしますね」

彼との縁が切れてからまるで入れ替わりのようにして店でよく会うようになったのが東都大工学部の院生である沖矢昴という男。
ふわり、と鼻を掠めるタバコの臭いに戸惑った。彼と同じ匂いだったから。酒も彼と同じバーボンのロックを好み、背格好もどことなく似ている。

話し方も声も顔も全くの別人である筈なのに、沖矢といると赤井を彷彿とさせた。

そんな彼からある日、デートの誘いを受ける。グラスを持つ手が宙で止まる。正直心は揺れ動いた。けれど…

「ごめんなさい」

自分でもバカだなと思う。

「他に気になっている男性でもいるんですか?」

言われて、ニット帽の男が頭に浮かぶ。あんな男とっとと忘れたらいいのに。忘れて、大切にしてくれそうな沖矢と付き合えばいいのに。

匂いだけで、
似てる背格好だけで、
飲んでる酒が一緒なだけで、

赤井秀一のことを思い出してしまう。前を向けないほどに彼が好きなのだとそこで気づいた。

「そう、かも…しれませんね」

平気なわけがなかった。もうとっくに彼に堕ちていた。体を合わせる度に心は寂しかった。全然これっぽっちも割り切れてなんかいやしない。ただただ、その行為に愛があるのか確かめるのが怖かっただけ。確かめて彼との関係が破綻するのも嫌だっただけ。

どちらにせよ、フラれてしまったが。

「…っ…」

無理矢理笑った歪んだ笑顔から涙がこぼれ落ちていく。驚いたように沖矢の細目が開いたのが見え、咄嗟に顔を伏せた。

「ご、めんなさい。かえり…ます」

「少し落ち着いてからでも」

涙が止まらない。立ちたいのに立てない。でも見られたくなくて、伏せた顔をさらに手で隠す。

「あかい…しゅーいちの…ばかやろー」

相手には聞こえないよう小声でそう悪態を吐く。しっかりと沖矢の耳に入っているとも知らずに。

「連絡もマメに返せし…。身の上話もしろってんだ。デートだって、」

格好悪いったらありゃしない。何が満たされてるだ。不満タラタラじゃないか。

「悪かった」

何故か彼が誤ったので、思わず顔を上げてしまう。

「どうして、あなたが謝るの?」

「その男の代わりに。少しでも君の気が晴れたら」

それに少し困った顔で笑えば、彼も同じ顔をしながら頭を撫でてくれた。こんな時でも手の大きさもこのぐらいだったなんて思っているのだから、どうしようもない。

彼とはそれっきり。自分もその後、赤井秀一との思い出が染み付いてしまったその店に行くことはなかったーー。





炭火臭い。そしてなんか重い。

昨夜遅くまで残業していたせいもあり、意識はまだ夢の中。寝惚けた状態でスンッと鼻を動かすと焚き火のような、バーベキューをした後のような臭いに眉を寄せる。

カーテンの隙間から差し込む朝日に瞼が刺激され、細めながら開けた視界に思わず手で口を押さえる。

「っ!?!!」

飛び込んできた光景に思わず叫びそうになる。いや、叫んでもよかったのかもしれない。これでもかと開いた瞳に映っているのは半年も音信不通だったニット帽の男。

あっ、帽子少し焦げてる。

着たままの革ジャンもボロボロだった。顔も擦り傷だらけ。死んだように眠る彼に本当に死んでしまってるんじゃ…と一瞬心配になったが、すーっ、すーっと規則正しく聞こえる寝息に安堵する。

背中に回っている手が服の中に入っているところを見ると、途中で力尽きて寝てしまったようだ。

え?つまり致しにきたのですか?

そもそも何故彼がここにいるのだろう。鍵を渡した記憶はないし、家にだって一度も来たことがない。この家を知っているとしたらあの泣いた日に心配だからと送ってくれた沖矢昴ぐらいだ。

色々勝手が過ぎる彼にだんだんと怒りが込み上げてくる。顔を少し上げて部屋を見渡すと背の高い彼には自分のベッドは小さいようで、足が少しはみ出ていた。床に放り投げられた縦長の黒いバッグは自分のものではない。スノーボードでも入っているのだろうか。つまり雪山で一滑りしたあと、焚き火かバーベキューを?
どれだけ激しく遊んだらこんなボロボロになるのだろう。その状態でベッドにいるのも許せない。彼が起きたら寝具を洗うのを手伝わせよう。

再び気持ち良さげに寝ている彼を目尻を釣り上げながら見つめる。
そういえば寝顔を見るのは初めてだ。いつも自分が起きる前には起きているか、ベッドから既にいないのどちらかだったから。ここまでぐっすり無防備に寝ている彼も珍しい。すごく疲れてるのかな…って!いけない!いけない!と頭を振る。今絆されかけていた。寝ているだけで相手の怒りを鎮めようとするなんてなんて恐ろしい男だろう。

「んっ…」

あまりにも見つめ過ぎたせいかわからないが、寝ながらも不服そうに眉間のシワを寄せた彼に思わずフッと笑ってしまう。吐息が顔にかかったことで彼は漸く薄く目を開いた。

「起きたのか?」

寝起きの彼の声は掠れていた。そんな声を聞くのも初めてだ。

「W起きたのかWじゃないんですけど。どうしてここにいるの?」

怒った口調で言ってみる。しかし彼は顔色一つ変わらなかった。少しは動揺してほしい。

「デカい山がやっと片付いたんだ。もう少し寝かせてくれ」

「な…!」

なんだと!

やはりこんな男はさっさと忘れてしまえばよかった。寝かせてくれと言ったくせに服の中に入っていた手が動きを再開させたので、すかさずその手をつねって外に放る。

「おい」

「不法侵入です」

迷惑そうに眉を寄せ、深い緑の瞳とようやく目が合う。

「俺は君と付き合っているつもりでいた」

突然言い出した言葉に目をパチパチと瞬かせる。

「は…?」

いきなり何を言い出すの。

「確かに言葉が足りなかった部分もあったが、だからって思っていることを口にしなかった君にも非がある」

過失の割合は50・50。と言われ、開いたままの口が塞がらない。

「だからそう君も怒…」

「なにそれ超腹立つんですけど」

驚いた表情をしている彼にお望みの言葉を浴びせる。

「思ってること口にしていいんでしょ?だいたい好きもなにも言われてないのに恋人同士は笑わせる。半年音信不通は普通にない。あと、勝手に家に上がるのなんて最低」

そう最後に睨めば、ポカンと口を開けたままだった彼が途端に大笑いし出した。片手でニット帽をクシャリと握り、その帽子と同じように顔をくしゃくしゃにしながら笑っている。その初めて見る顔に呆気に取られつつも目は釘付けになってしまう。

「本当に、君はまったく…。敵わないな」

ハァーっと気持ちを落ち着かせるように息を吐き出している彼にこちらの怒りまでもが徐々に鎮火していっていることに気づく。

「そ、そんなんで絆されないんだから!」

「ああ、わかってる。君を傷つけた俺が悪かった。許してほしい」

素直に謝られ「うっ…」と言葉に詰まる。

「君を愛してる」

「…っ…」

ずっと、言って欲しかった言葉。必死に目に力を入れ、泣くのを堪える。「ん?」と反応を求められ「私だって…ずっと大好き、だったし…」と声を絞りだして応えた。

「ご…ごめんなさい…は?」

調子に乗ってそんなことを言ってみる。彼は怒るわけでも呆れるわけでもなく、優しく笑ってから「すまなかった」と言った。

……まぁ、いいだろう。

「わ、私も…すまないと思ってる」

彼は再び小さく笑った。

「仲直りするためのキスする許可をいただきたいんだが…」

「いいよ」

あぁ、もう赤井秀一には全然敵わない。

「あなたには一生振り回されるんだろうな」

「一生か…。それも悪くないな」

満更でもなさそうな顔でキスをされる。どういう意味だと言ってやりたかったけど、もう話す口は彼にあげてしまったから。

翌る日アメリカに帰るという彼から一緒に来てほしいとプロポーズされるとも知らずに呑気な頭で幸せに浸っていた。



おわり
2023.09.25.


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