甘露の雨

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「おねがい…します」

おねがいっ…します

おねがいします…

おかあさんを…

連れて行かないで


小さな手がズボンを掴む。大粒の涙を流し、必死に縋り付きながら少女は必死に懇願したーーー…

トントントン、とノックをする音で目が覚める。どうやら事務所の机で頬杖をついたまま寝てしまったらしい。返事をすると開いたドアの隙間から娘が顔を出す。

「降谷くん、来たよ」

寝てた?と少し落ち気味の目蓋に気づいた娘がそう口にする。

「あぁ、少しな」

「もう少し休む?」

「いや、大丈夫だ」

娘が学友をここに連れてきたのは初めてのことで、なかなか筋のある子だった。

「筋トレするときは腕に筋肉を付けすぎないように。パンチを打つとき邪魔になるから。その分インナーマッスルをしっかり…」

整った顔がコクリと頷く。喧嘩をしたことがなさそうな顔つきをしているが、負けん気が強い性格と時折見せる獣のような目つき。そして繰り出す拳は明らかに喧嘩慣れしており、これはかなりの場数を踏んでいるだろうことがわかった。

「腹の筋肉を使って身体全体を捻る。その回転力を利用してウェイトの軽さを補うんだ」

余計な動きもなく、指摘すればそこを的確に修正してこちらが望んだ通りの動きを見せる。教えれば教えるほど吸収する彼に、アマチュアでもいいから是非ボクサーとしての道を歩んでもらいたかったな、と会長としての欲が出てしまう。

休憩を挟むと娘がタオルとスポーツ飲料が入ったボトルを持って走ってくる。渡されたボトルに口をつけながら横目で娘を追う。彼にも同じものを渡していた。

楽しそうに話している二人を見て、はぁ〜…と見えない溜息をつく。

彼氏、ではないらしい。

いつかは訪れるであろうと覚悟はしていたが、こう目の当たりにすると…なかなかくるものがある。

まだまだ先の事だと思っていたが、誰かのものになる日がいずれ来るのか。嫌だな、なんて思ってしまう。

「お父さん?」

ぼんやりそんなことを思っていると、娘が心配そうに覗き込んでくる。心配ない、と頭を撫ででやれば少し気恥ずかしそうに肩を上げた。

「さて、降谷くん。だいぶ慣れてきたころだろう。どうだ?そろそろ領とスパーリングしてみないか」

え?と二人が信じられない顔でこちらを見る。

娘よ、お前も驚くのか。今まで何戦もやってきたではないか。

ボクシングは喧嘩とは違う。ボクシングをやっているからといって喧嘩が強くなるわけではない。喧嘩の場合、拳だけではないし、差しならまだしも大勢でのそれは不利となるケースもある。

逆も言える。喧嘩が強いからといってボクシングが強いわけではない。3分という時間制限付きの小さなフィールド内を拳だけで闘うのだ。

「うちの領は強いぞ」

そう、バンッと背中を叩いて気合を入れさせる。それに娘も覚悟を決めたのか次には背筋を伸ばして、彼に微笑んだ。

「…負けないからね、降谷くん」

困った顔をしている彼に、こちらはとても満足した顔になる。



1ラウンド、たったの3分。慣れている娘と違い、初めて試合をする彼は躊躇いも見られたがしっかりと娘の動きを見ていた。もともと頭もいいのだろう。洞察力も兼ね備えており、加え俊敏さもある。娘は足を生かし数を打つが、次第に彼がその動きに合わせられるようになっていった。

しかし、まだそこは娘の方が一枚上手。

フェイントを掛けてからボディに一発入れる。ガードが下がりくの字になる彼にアッパーを繰り出すが、寸前でそれを避けた。おぉっ!と思わず歓喜に声を出しそうになる。

後ろに下がり、体勢を整える。そこで漸く目が覚めたのかガラリと目つきが変わった。

構え直した彼は先程と打って変わり左右に体を揺らす。完全に目の前にいる敵を狩る動きだった。娘にも緊張が走ったのがわかった。

あぁ、彼は良いボクサーになる。

しかし最後の最後でスタミナ切れになってしまい、試合終了後、彼は片膝を着いた。立っている娘は彼に背を向けヘッドギアを外す。少しホッとした顔をしていた。あと何試合か経験を積めば確実に娘を追い越すのだろう。それほどに彼には才能があった。

W降谷くん、ボクサーには興味はないのかい?W

W僕は、どうしてもなりたいものがあって、ボクサーにはなりませんW

初日の練習の時、彼にはっきりとそう言われた。目を見て、その決意はとても固いものだとわかった。

本当に残念だ、と胸の内で苦笑いを浮かべる。もういつもの笑顔で彼に手を差し伸べている娘を見て練習室を後にした。





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