甘露の雨

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翌日、夏期講習でやってきた彼の顔は案の定腫れていた。それにお互い苦笑いする。こちらが気を遣わないよう彼は普段通りに接してくれている。そんな彼に昨日散々言った言葉を心の中で呟く。ありがとう、と。


休み時間に手洗いで席を立つ。トイレから出てくると彼の友達の諸伏景光が出入り口付近で領を待っていた。

「成瀬、ちょっとだけ話いい?」

彼から話があるとは珍しい。昨日のことだろうかと領は緊張しながらも頷く。それに彼は嬉しそうに笑った。

「実は昨日成瀬のとこでバイト募集の紙見てさ。ゼロ…えと、降谷が二輪の免許欲しがってて、バイト探してるんだけど成瀬の所どうかな?」

人懐っこい笑みを浮かべる彼からの予想外な申し出。しかしなぜ本人ではなく彼伝いなのだろう。

「大丈夫だと思うけど…降谷君はどう思ってるの?」

「それはこれから」

「え?」

本人に了承を得ていないのか。信じられない、と言った顔で諸伏を見れば彼は意味深な笑みを浮かべている。

「成瀬、降谷と何処かで会ったことあるの?」

その質問にドキリ、と心臓が音を立てる。彼が何か言っていたのだろうか。

「あのテニスボールってさ、実は成瀬が持ってた…とか?」

WあのWと如何にも含みを入れた言い方に領は目を見開く。その表情を見て諸伏は満足そうに微笑んだ。

「やっぱり?そうだと思っ…」

「降谷くん…私のこと覚えてるの…?」

声が震える。領を覚えていて今までの出来事があったのだとしたら、知らないふりをしなければならない理由があるということだ。不安になり表情を曇らせると気づいた諸伏は慌てたように顔を横に振る。

「あっ、違う違う!誤解させてごめん。ゼロからは何も聞いてないよ。というかボールを無くした日の夜ね、あいつ高熱出して所々記憶が飛んでるみたいなんだよね」

え?と領は口を薄く開け、諸伏を見る。

記憶が、飛んでるーー?

「体は、大丈夫だったの?」

「翌々日にはケロッとしてたよ」

その言葉に安堵する。あの日結構な雨だったから風邪を引いてしまったのか。流石にそこまでは予想出来なかったが、少しでも疑ってしまった自分を恥じた。

彼に真実を訊けない臆病者のくせに勝手に彼の気持ちを想像して傷ついて…。

自己嫌悪に眉を寄せ、唇をキツく閉じる。そんな領の表情を見て諸伏は困ったように笑った。

「記憶が無いこと自体忘れてるみたいだから俺からは何もしないつもりだったんだけど最近本人も何か引っかかってるみたいで」

近くにいれば思い出してくれるかもしれないよ?

その言葉につい想像し、胸が躍りかける。しかしすぐに散乱しているラケットの情景が頭に浮かび、冷静になる。記憶が飛ぶ程の高熱。やはり相当なトラウマだったのではないだろうか。

「思い…出したくない、記憶かもしれない」

「それはゼロが決めることだ」

被さるように諸伏が口を開く。その凛としたはっきりとした声は降谷と重なる。諸伏の言葉にまた彼の気持ちを勝手に決めつけていた事に気づく。

「ゼロは、そんな柔な奴じゃないよ」

次には安心させるような柔らかい口調。親友。彼と同じ、淀みない瞳。諸伏景光は間違いなく、降谷零の親友なのだ。培ってきた二人の時間がとても尊く感じる。

寂しく領の眉は下がり、自嘲気味に口角が上がる。

「そっか」

「大方、ラケットを壊されたとかだろ?」

その言葉に顔を上げ、彼はエスパーなのだろうかと宇宙人でも見るかのような目で彼を見る。

「学年上位の人ってみんなそうなの?」

それに諸伏はプッ、と吹き出した。

「あはは!成瀬はすぐそこに持ってくな」

可笑しそうにケタケタ笑う彼。その笑い声は領に纏っていた哀愁を追い払う。

あー、笑った。と生理的に出た涙を指で拭ったあと、彼は言った。

「違うよ。俺がゼロのことならなんでもわかるってだけだよ」

もう始まる時間だから先に行ってるね、と彼は踵を返し教室へ向かった。

その背を見つめ、領はぽつり、と零す

「敵わない、なぁ…」

Wゼロは、そんな柔な奴じゃないよW

彼に関われば関わるほど、
話せば話すほど、
近くにいればいるほど

気づいて欲しい気持ちが大きくなっていく。

ほんの、少しだけ、
ほんの、一歩だけ、

勇気を出して近づいてみよう。

その日、領は降谷にバイトの話を持ちかけた。





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