甘露の雨
□25
1ページ/1ページ
「あれ?安室さん今まで腕時計なんてしてました?」
皿洗いの時に時計を外す仕草を見て梓は今まで安室が時計をしていなかったことに気づく。そんな梓の指摘に安室は照れ臭そうに頬を掻く。
「実は部屋を整理していたら出てきて…。最近はスマホで時間を確認出来ますし、必要なかったんですが、懐かしくてつい…」
「もしかして、昔の彼女さんからのプレゼント…とか?」
「いえいえ!これは二十歳の時に奮発して自分で買ったものですよ」
怪しい、と顔をニヤケさせている梓に苦笑いで誤魔化す。水仕事も多いポアロではずっと外したままの方が良さそうだな、と考えている頭の傍らでこんな古いものを着けて今更なんになる、と己を詰る。
一方的に振り、姿を晦ましてからもう何年も経つ。彼女が古いヘアブレスレットをしてくれているのに気づいて、それで許された気になって、今更誰が気にするわけでもない古い腕時計を身につけ始めるなんて…。女々しいにも程がある。
久しぶりに君と目があった。君は動揺して、あんなにも目を丸くして、その瞳いっぱいに自分を入れて…
どうしてあそこであんなコケ方をするのか。ベタなそれにちょっと笑いそうになってしまった。
黒田管理官から自分には触れぬよう先手を打っておいたと連絡があったが領のあの様子からして彼女の耳にはなにも入っていなかったらしい。本当に別人だと思っている可能性もある。それなら好都合のはずだ。そう思わせておけば良い。自分はただひたすらに安室透を演じるだけだ。
なのに…
上司にマフラーを巻かれ、今の仲間と楽しそうに会話をする君。毛利小五郎に会釈はしてもこちらに一瞥もくれることなく横を通り過ぎた彼女の腕を掴みそうになる。
腕を掴んで抱き寄せて、彼女の体を力一杯に抱きしめて、冷たくなっているであろうその耳に唇を押し当て、僕だ、と伝えたい。
殴られるだろうか。
軽蔑されるだろうか。
それでもいいからもう一度君に触れたいと思うのはとても罪なことだったーー…
「ただいまー」
コナンは学校から帰宅し、事務所の扉を開ける。小五郎は無精髭を生やし、ビールの缶が散乱しているデスクの上に大いびきをかきながら突っ伏して寝ていた。
呆れ顔でその横を通り過ぎランドセルを事務所のソファーに置く。テレビをつけると速報であるニュースが流れていた。
広域指定されたその事件にコナンはスマホを取り出し、さらに詳しい情報をと詮索する。
画面をスクロールしながら羅列されている文字を目で追う。
えーっと、なになに…
長野県で強盗殺人事件が発生。被害者の所有車両が所在不明となっていたが、事件発生の翌日、東京都内で同車両が走行していることが判明…。また同日に同様の手口と思われる事件が発生。警察は同一人物の犯行か未だ捜査中とのこと…。
気になるな。工藤新一の声で目暮警部に電話して詳しいことを訊くか。それとも安室透に…
「・・・・」
コナンはアドレスが記載された小さな紙切れをポケットから取り出す。あの日、成瀬領から渡されたものだ。恐らく彼女の連絡先だと思うがいくつか疑問が残る。
彼女のあの様子から成瀬領は恐らく降谷零と知り合いなのだろう。安室透の名前を知らなかったということは頻回に連絡は取り合っておらず、彼があの場にいたことは想定外だった、というところだろうか。
互いに知らないふりをし、こうして彼女が内密に連絡を取り合おうとしてきたということは降谷に内緒で何かコトを進めたいのだろう。
彼にその事実を伝えるべきか否か…
W彼のこと、守ってあげてW
言葉から察するに成瀬領は彼が潜入捜査中の身だということを少なくとも知っているということになる。黒ずくめの奴らのことはどうであろう。迂闊にこちらから話して危険な目に遭わせるわけにもいかない。彼女が黒ずくめの仲間の可能性も拭いきれない。
最大の疑問は彼女が毛利小五郎ではなく、何故小学生の自分にこれを渡してきたのか、だ。彼女は出会った頃からそうだった。
W君は工藤新一くんの弟?W
出会い頭、そう訊かれた。俺のことを…工藤新一のことを知っている言い方だった。遠い親戚だと応えると彼は元気なのかどうか尋ねられた。
W新一兄ちゃんのこと知ってるの?W
工藤新一が生きていることを黒ずくめの奴らに知られてはならない。どこで情報が漏れるかわからない為、コナンははぐらかす様に彼女の質問には応えずに質問で返した。
すると彼女は懐かしむように小さくはにかんだ。
W昔、彼が小さい時に…ちょっとねW
え?とコナンは幼少期の記憶を遡る。しかし彼女に見覚えはなかった。小学生らしからぬ推理を見て驚く彼女に対し新一から聞いたのだと誤魔化せば彼女は納得したように頷いた。
Wじゃあ君は工藤新一君の弟子なんだねW
弟子。しかもこのフレーズ…前もどこかで…
W『じゃあ今はまだホームズの…』W
あれ…?
今、何か思い出しかけたような…
「ただいまー!あっ!お父さんったら!またビールそんな呑んで!コナン君も電気も点けずにこんな暗い部屋で…」
蘭の帰宅により重苦しい空気は一掃される。蘭が電気を点けるまで部屋が暗くなっていることに気づかなかった。チカチカと白い蛍光灯に目が眩む。事務所の窓に目を向ければ空はもう暗くなっていたーー…
領は少し大きめの旅行鞄を持ち一人新幹線に乗っていた。ポケットに入っている携帯が小さく震える。心当たりは一人しかおらず久しぶりに何かを受信したそれに領は急いで折りたたみ式のその携帯を開く。スマホに慣れた手は久々のボタン操作に違和感があった。ヘアブレスレットが微かに揺れる。メッセージを見て領の口元は小さな弧を描いた。
次の停車駅が電光掲示板に表示され、アナウンスが流れる。
東京、と記されたその文字に領は携帯を強く、強く握りしめたーー…
next→ 26
2020.11.15