甘露の雨

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「じゃあバーボンあとは手筈通りに」

「えぇ」

仕事の話をしながらのディナーを終え、店を出ようとしたところでガシャンッとガラスが割れたような音がした。

「ぐぁっ…!」

「きゃぁぁ!」

次いで上がる呻き声と悲鳴。発声元に目を向ければテーブルに突っ伏すように倒れている男性とそれを見て口元を押さえながら立ち上がっている女性。

普段の自分なら透かさず足を向けているところだが、今は変装をしていないベルモットと一緒。目立つ行動は控えるべきだ。すると小さな少年が駆け寄っている姿を視界の隅に捉える。

どうしてここに…

偶然居合わせたのだろうか。異変を感じ取った客が次々と立ち上がり騒ぎ立て始めた頃、ベルモットは我関せずにショルダーバックから手鏡を取り出し、口紅を直していた。

「貴方はどうするの?」

自分がここに居たというのは調べれば分かってしまうことだ。後から来た毛利小五郎を後目に見て尚更、弟子の安室透が事件を無視してその場を去るのはおかしい。澁谷夏子の時のようにはいかないだろう。混乱に乗じて去ろうとしている彼女に耳打ちする。

「僕はここに残ります」

「そう。わかってると思うけど…」

「えぇ、あの少年に危害が及ぶようなことはしませんよ」

「ならいいわ。じゃあ後はよろしくね」

最後に釘をさされ、人の隙間を縫うように彼女は人混みに紛れ、店を出た。バーボンは彼らに足を向け、さも今気づいたかの様に声を掛けた。

「あれ?コナン君と毛利先生ではないですか」

「安室さん⁉」

現場維持の為に小五郎が規制をかけたり、警察に電話をしたりと忙しなく動いている最中、突然現れた安室に江戸川コナンは驚嘆の声を上げた。聞けば彼らは今日たまたま別の依頼を受け、このレストランに来ていたという。お前こそどうしてここにいるのだ、と少年の目は問うていた。

「僕は調査報告がてらクライアントと食事に来てたんだ」

「そうなんだ?」

安室の周りを確認しているのが目の動きで分かる。そのクライアントとやらを探しているのだ。そんなコナンに安室は依頼人を店先まで送り届けた直後、事件に出会したことを告げる。すると彼の中で容疑者は既に絞り込めているのだろう。その人物に犯人への直接的な繋がりがなさそうだと判断したのかそれ以上は関心を示さなかった。






間もなくして警察が現着し、現場検証が始まる。並ぶ探偵勢に高木は「また貴方達ですか…」と、もはや驚かれるどころか呆れた顔を向けられる始末であった。それにコナンは苦笑いで流す。

ピリリッ…と鳴り出した電話。どうやら高木のスマホからのようだ。彼は短い会話を終えると目暮にコソッと耳打ちした。

「目暮警部、例の事件で聞き込み調査を終えた成瀬刑事が今こちらに向かっているとのことです」

「うむ、わかった」

聞こえた会話にコナンはシートを被せられる前に再度死体を確認する。その首筋には指、第一関節ぐらいの大きさの星マークの入れ墨が入っていた。ジッと見つめ、コナンは誰にも気づかれないようメールした。

間もなくして到着した成瀬領は安室に一瞥もくれる事なく目暮の元へと向かう。手袋を嵌めながら遺体に被せられたシートを上げ、何かに気づくと直ぐ様スマホを耳に当てた。恐らく長野県警に電話を掛けているのだろう。

コナンの中で今回の犯人は既に分かっており証拠も見つけている。後は大人組にヒントを与えながら真犯人に辿り着けるよう促すだけなのだが、いつもならここで助け舟を出してくれる安室の声が一切ない。顎に手を当て考えているようだが、焦点が合っておらずどこかぼんやりとしていた。

「あむ…」

W彼には内緒にしておいてほしいのW

グッと出かかった言葉は脳内で再生された声により飲み込んでしまう。安室の前で小五郎を眠らすのは極力避けたかったが致し方ない。小五郎に時計型麻酔銃の照準を合わせる。タイミングを見計っている最中、背後の気配に気づかなかった。容疑者の一人が足元にいるコナンに気づかず、ぶつかってしまう。

「わっ!」

パシュッ!

「ッ!?」

押された反動で麻酔銃の針が誤射してしまった。照準は大幅に外れ、あろうことか電話している彼女の首後ろに当たってしまう。

スマホが手から落ち、グラっと傾く彼女の体。

椅子も壁も、寄りかかるものが何もない場所にいた彼女はこのままだと床に頭を強く打ち付けてしまう。ヤバイ、とコナンは走り出す。

ダンッ!と床を蹴る音。それはコナンが出した音ではなかった。通り過ぎた人物に目を開く。誰よりも速く、誰よりも先に安室透が倒れる彼女の腕を掴み、頭を守りながら抱き寄せたのだ。そのまま一緒に崩れるようにして床に膝をついた安室。

コナンからは彼の背中しか見えない。

ぎゅっ、と丸まったその背はまるで彼女を抱きしめたようにも見えた。

「成瀬刑事!ど、どうしたんですか!」

「おいおい、まさか気を失っておるのか?」

高木と目暮が心配そうに覗き込む。マズイ。この状況をどう誤魔化そうか。ちらり、とこちらを見た瞳と目が合う。薄く細めた安室の目にダラダラと滝のような汗が顔中流れた。

「熱が…あるようですね」

「えぇ⁉」

視線を戻し、彼女の額に手を添えた安室に高木も同じように額に触れようとすれば横抱きに抱えたまま立ち上がってしまう。

「医務室はありますか」

「あ、それならこちらに」

店員が案内し彼はそのまま店奥へと消えていってしまったーー…。





「何か掛けるものをお願いします」

快く頷き、医務室を出る店員。眠る彼女を簡易ベッドの上に優しく寝かせる。

すー、すー、と気持ちよさ気に寝ている。顔に掛かっている髪を払い除けてやる。目の下のクマが酷かった。あまり寝ていないようだ。この前会った時より顔色が悪い。

ベッドの上に投げ出された手についているヘアブレスレット。十年以上も前だというのによく切れずにあるものだ。年季の入ったそれを指先に乗せる。

W別れて欲しいW

Wほかに好きな子が出来たW

傷ついた顔をする君のあの表情は今でも忘れられない。

公安に配属され、緘口令を敷かれるのは当然で、既に潜入の話が出ていた自分には彼女と人生を共にする道は途絶えたと思っている。常に危険と隣り合わせでいつ死ぬか分からない人間より、新しい人を見つけ、幸せになってもらいたかった。

ーーなら何故、あんな振り方を?

胸奥でもう一人の自分がそう語りかけてくる。彼女の性格を一番に理解しているのは自分だ。変に期待させるより…

ーー気づいて欲しかったんだろ?

己の言葉がチクチクと胸を刺してくる。そうだ。あんな振り方をしたら彼女が疑問に思うのは当然だった。

僕は…君を手放す気なんて毛頭なかったんだ。

去ったことで君を束縛した。
消えることで呪縛した。

無意識にしていたことだった。そのことに今更気づくなんて。君の幸せを願い、君の元を去るなんて詭弁もいいとこだ。すべてのことにおいて自分を優先したに過ぎなかった。

「…ごめんな、領」

耳に唇を押し当て、WあいしてるWと唱えた言葉に声はなかったーー…




店員は毛布を持ち、医務室を再度訪れると先ほどの男性はいなかった。ベッドに眠る彼女の体にはジャケットが掛けられている。



コツコツ…と誰かの足音だけが廊下に寂しく響いていた…


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2020.12.29


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