甘露の雨
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領が意識を失った時に落としたスマホを拾い上げ、彼女が寝ている隙に中を調べさせてもらった。てっきり江戸川コナンと連絡を取り合っているものだとばかり思っていたのだが、メールは一通も残されていなかった。復元も試みたが消去しているわけでも無さそうだ。
彼女はあの店に自分がいても動じることはなく、それどころか敢えてこちらを見ないようにしているようだった。安室透と成瀬領との関係はそれほど親しいわけではないが、挨拶ぐらいあっても良さそうなもの。二回目はポアロで普通に会っているのだから一瞥もくれなかったのは逆に不自然である。そう、それはまるで…自分があの店にいることを初めからわかっていたかのような…。だからてっきりコナンがあの店に安室がいるということを彼女に教えたものとばかり思っていたのだが…。
「では安室さん!締めはよろしくお願いします」
帰り支度を済ませた梓がバックヤードから顔を出す。
「はい、任せてください。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした!」
安室も締めの作業を終え、店内の電気を消す。外に出ると雨が降っていた。
ぱしゃ、と水を踏む音。同時に聴こえる靴音に傘をさそうとしていた安室は顔を上げる。
「こんばんは」
「…っ…」
そこには紙袋を持った領が立っていた。
「ジャケットを返しにきました」
「・・・・」
「安室さんのもので間違いはありませんか?」
わざわざクリーニングに出したのだろう。紙袋を少し開き、透明な袋に入ったそれを見せてくる。驚くことはない。返しにくるよう仕向けたのは自分だ。しかしこうもあっさり会いにくると拍子抜けしてしまう。
「えぇ、…」
「記憶がないのですが急に倒れた、と知人から聞きまして…。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
領の手から紙袋を受け取る。安室の手に渡ると彼女の手はすぐさま離れていってしまう。ありがとうございました、と他人行儀にお辞儀をし、そのまま踵を返してしまう。
「送ります」
気付いたら引き止めていた。足を止め、振り返る彼女の表情はいつも通りで…感情を何も読み取ることは出来なかった。
「…いえ、歩いて帰れますので…」
愛想笑いを浮かべ首を横に振る。距離を感じるというのに傘を持つその手には揺れるヘアブレスレットが不自然に安室の目に映る。
「その、ブレスレットは…」
彼女の肩が揺れる。それを隠すように手首を手のひらで覆った。構わず続ける。どうしても彼女と話すきっかけが欲しかった。
「随分古いようですが…誰かの貰い物ですか?」
彼女の目が微かに開かれる。しかし段々と眉間に皺を寄せ始めた。何故わかり切ったことを敢えて訊くのだと、どうしてお前がそれを言うのだと、その目は問うていた。
「そうです」
少し突き放すような言い方。声のトーンから怒っているのがわかった。ポアロが終わった直後でつけるタイミングを逃したポケットに入れたままの腕時計がずしり、と重く感じる。
「どうして…そんなことを訊くんですか?」
「それは、…」
「おかしいですか?」
「は?」
「私が古いものを未練がましく身につけているのは変ですか?」
「ちがっ…」
「もう、帰ります」
踵を返し、去ろうとする彼女の肩を掴む。しかし立ち止まってはくれたものの硬く、石のように動かない体は決してこちらを振り返るものかと、強い意志を感じるほどだった。
「気分を…害されたのなら、謝ります」
「…っ…」
耳に掛けた髪がさらり、と流れ落ちた。短く息を吐き出したあと、彼女は口を開いた。
「…わた、しのほうこそ…取り乱してすみません」
触れている肩の力が徐々に抜けていくのがわかる。
「…これを贈ってくれた人は…今は、ずっと遠くに…いるんです」
今度は隠すようにではなく、優しく愛でるようにそれに触れるものだから安室の心は揺れる。
「どこかで元気でいてくれますように、と…」
「…っ…」
「無事に、帰って…これるように…」
「帰って…来なかったら?」
どこまでも無神経な質問ばかりする自分。学生時代、彼女と話す口実が欲しくて、デリカシーのない質問ばかりをしたあの頃の自分とちっとも変わっていないことに気づかされる。
彼女も既視感を覚えたのかは分からないが呆れたように笑った。けれど、責めたりなどはしなかった。
「そうですね…それは…困る、かも…です」
柔らかく、けどほんの少し泣きそうな顔で笑うその表情に傘を持つ手に力が入る。
「…っ…」
「帰ってきてくれなきゃ、困ります」
引き寄せ、抱きしめようとする己の体を必死に止める。
「その人を…恨んでいますか?」
「…っ…」
バッ!と肩に触れていた手を剥がすように安室の方を振り向く。キッと睨まれ、思わず片手を小さく挙げてしまう。
「恨むわけ…ないじゃないっ」
絞り出すような声。泣きそうな顔でこちらを睨んでいる君を今すぐ抱きしめてしまいたかった。安室ではなく、降谷に向けて言ったその口調と言葉を聞いて愛おしさが胸に広がっていく。
腕の中に閉じ込め、頭を撫でながら、ひたすらにごめんと愛してるを繰り返し、君にありったけのキスをしたい。そんなこと出来るわけもなく眉を落とし小さく困ったように笑っている安室に気づいて彼女は少し目を見開いた。次には安室から顔を背けるようにまた体を前に戻してしまう。
「言い忘れていましたが、ジャケットのボタン…外れそうだったので直しておきました」
え?と言葉を聞き返す前に彼女は失礼します、と雨の中へと消えていってしまう。安室は紙袋の中に入っているジャケットを覗く。
ボタンが、外れそうだった?
潜入用で部下に用意させたばかりの新品同様の服だ。着る前にも確認している。
外れそうなボタンなんて…
「なるほど…」
安室の口隅が僅かに上がる。家に帰り、ジャケットを袋から取り出す。付けられているボタンを丁寧に一個ずつ確認していく。一箇所だけ留められている糸の色が違っていた。
慎重に糸を外し、ボタンを手に取ってみる。しかし別段変わったところはなかった。なら糸か…と、外した糸の両端を持ち、部屋の電気に当てるようかざして見る。変なところで玉留めが何個もついている。可変長なそれに覚えがあった。
モールス信号…?
「キ…テ…イ…ケ…?」
着ていけ?このジャケットをか?わざわざモールス信号にして送ることだろうか。しかし、何か意図があるのは間違いない。いったいあの少年となにを企んでいるのやら。
「目の下のクマ…治ってなかったな…」
ボタンを新しい糸で付け直す。その口元は微かに綻んでいたーー…。
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2020.1.14