片割れの君
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彼女に、恋心なんてなかった。
利用するために付き合っていた。
ベルモットが必要以上に彼女のことを気にかけるから何かしらの情報を持っていると踏み、彼女の教育係を申し出た。
銃の扱いにも慣れておらず、一体どうしてこんな人間がコードネームまで与えられているのか甚だ疑問だった。
しかしある時取っているホテルに二人で戻ると彼女がクンッと臭いを嗅いだ。まだ扉を開ける前なのに火薬の臭いが微かにする、と言った。自分には分からなかった。しかしそう言われたからには慎重に仕掛けられたトラップがないが注意しながら部屋へと入る。見つけた爆弾に彼女の印象はがらりと変わる。
結局ベルモットがバーボンに彼女の能力を分からせるために冗談で仕掛けたと後に聞かされるが言葉で伝えるだけで十分だったのでは、と問い詰めたら鼻で笑われただけだった。
そう、彼女は嗅覚がとても優れていたのだ。薬品を嗅がせればその臭いを瞬時に覚え、どこで使われているのか嗅ぎ分けまで出来るという。
そうして一緒に過ごしている時間が長くなるにつれて彼女から好意を向けられるようになる。情報を手に入れるには好都合だった。なんの感情も胸にないまま自分はそれを受け入れる。
そう、だからこれは錯覚だ。
錯覚でなければ…ならないのだーー。
《ライ、ターゲットはどうだ》
《今パーティ会場に入った》
《アマレット、準備は?》
「あとちょっと!」
「こーらアマレット、動かないで頂戴」
入ってきた無線に応えるとキールはアマレットの顎を持ち、小筆に塗った紅を彼女の唇に乗せていく。
コンコンコン、と控え室のドアが叩かれる。俺だ、の声にライだと分かるとアマレットは軽く返事をした。長い髪を下の方で一つに結び、カッチリとフォーマルスーツを着こなしている彼が部屋に入ってくる。ライはシックな黒いドレスに身を包んだアマレットを見て薄く目を開いた。
「なんだ、見惚れたか?」
未だキールに顎を持たれてる彼女は目だけをこちらに向け、口隅を斜めに上げた。
「ちょっと、口動かさない」
力を抜いて、とキールの言葉に従い彼女は口まわりを脱力させる。艶の入った紅が下唇を縁取っていく。
「はい、出来た」
漸く顎を解放されたアマレットは凝り固まった体をほぐしながらキールに礼を言う。
「悪いなキール。ベルが捕まらなくてさ…助かったよ」
化粧はまだ出来なくさ、と決まり悪げに笑う彼女。近くのテーブルには紅茶にスコーン、小皿にジャムが添えられていた。直前に茶会でもやっていたのだろうか。
「キャンティも暇そうだったんだけどパーティ仕様じゃなくハロウィン仕様にされそうだから」
「それ本人の前で言わないでね」
化粧道具を片しながらキールは呆れたように溜息をつく。彼女は不安定なヒールに足を取られながらもエスコート兼ボディガードのライの腕に自分の腕を絡ませた。
「あっ、ちょっと待って」
白い手袋を嵌める前にテーブルにあるジャムを指で掬い舌の上へと乗せる。そのまま紅茶を流し込んだアマレットにライは薄く目を見開く。
「お前…」
「口紅塗る前にしてほしかったわ、それ」
ライが問いかける前に片眉を吊り上げたキールがまったく、と溜息を吐きながら少し剥がれた口紅を塗り直す。
ライは言いかけた言葉をそのまま飲み込んだ。今は余計な詮索をしている場合ではない。
今宵お偉い政治家どもが集まるこのパーティにターゲットが来る。うまい具合に奴の注意を引ければ薬のありかがわかる。気に入られて家に招待されれば尚よし。
「バーボンは?」
化粧直しが終わった彼女はちっとも悪びれる様子なく白い手袋を嵌める。
「あいつはまた別行動だ」
そうか、と長い睫毛が寂しそうに下を向く。動く度に瞼に付いた光沢あるアイシャドウが角度を変えキラキラと光った。
「じゃ、いきますか」
一度伏せられたその瞼裏には彼を思い浮かべたのだろうか。次に目を開けた時にはいつもの彼女に戻っていた。慣れないヒールで床を鳴らしながら彼女は扉のノブに手をかけたーー…
「貴方から急な呼び出しなんて珍しいじゃない?」
以前ベルモットと会ったスカイラウンジに彼女を呼び出す。一望出来る夜景には目もくれずにベルモットはバーボンが座る窓辺のカウンター席の隣に腰掛ける。
「もうお酒は頼んであります」
「あら、気が効くのね。でも私がなにを呑みたいかなんて貴方に…」
「貴女が以前頼んだバラライカ… 」
言葉を遮るようにしてバーボンが発したそのカクテルの名にベルモットは口を閉じる。
「ロシアの民族楽器の名前から取ったウォッカベースのカクテルですよね」
ベルモットの肩が微かに揺れる。しかし次には長い髪を手で払いながら余裕の笑みを浮かべた。
「…そうね、だからなに?」
「以前飼っていたWルシアンWという犬は一匹だったんですか?」
「・・・・」
ベルモットの目が鋭くなる。彼女の表情の変化に、当たりだ、と勘付く。
「偶然にもWルシアンWという名前が入ったカクテルがありますね」
彼女の長く上を向いた睫毛がピクッと小さく震える。するとちょうど店員が頼んである酒を持ってきた。
「ホワイト・ルシアンとブラック・ルシアンです」
店員が去ったのを見計らい、バーボンはカウンターに両肘を付いて、組んだ手で口元を隠す。置かれた2種類のそのカクテルをジッと見つめた。
「この酒もウォッカベースのカクテルだ」
ホワイト・ルシアンとは黒いコーヒー・リキュールの上に白い生クリームが乗せられているカクテルだ。白と黒の美しく二層に分かれた酒。そしてその白い生クリームを取り除いた黒一色のカクテルがブラック・ルシアンだ。
「このカクテルのWルシアンWは英語でロシア人を指す…」
諸説あるがロシアの冬をイメージしているかのようなその真っ白い生クリームは白系ロシア人を指しているとも言われている。
「伝統的なロシアのカクテルではありませんがベースとなるウォッカの原産国がロシアというのも一つの…」
「御託はいいからさっさと用件を述べなさい、バーボン」
殺気立った鋭い眼がバーボンを睨みつける。バーボンはブラック・ルシアンを見つめ、ぼんやりと思う。今のアマレットのようだ、と。白い生クリームを取り除き、黒しか残っていない。
白く、美しい彼女はいなくなってしまった。黒いものに身を包み、この組織の色に染まってしまった彼女しか今はいない。
「彼女は…」
W地獄で会いましょう?バーボンW
「本当に一度死んだんですか?」
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2020.11.17