泣いて笑ってまた明日
□玉子焼きと爪楊枝
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降谷はずっと引っかかっていた。
伴場の靴底には彼が犯人ではないという証拠のケーキのクリームがべったりと付着していた。そのことにまだ気づいていない様子の毛利小五郎に、敢えて伴場を挑発し、予想通りに殴り掛かってきた伴場を床に転がし、W毛利さん!彼の足を押さえて!!Wと小五郎に靴底を見せようとする。だが結局彼はその靴底を見ることはなかった。しかし後の彼の推理ではクリームの存在には初めから気づいていたという。今まで指摘しなかったのは伴場が仕掛けたフェイクかどうか見定める為だと…。
本当に初めから気づいていたのか。危うくこちらも騙される所だったと賞賛したい所だが、毛利小五郎という男はそれ程に恐ろしい演技力を持った男なのだろうか。
そして気になるのが毛利家に居候しているというあの江戸川コナンという少年。探偵として中々に興味深い動きをしており、何かと気になる指摘を我々にしていた。
そして彼は毛利小五郎の代わりに伴場の靴底を興味深そうに見ていた唯一の人物でもある。
偶然かとも思った。探偵の真似事をしているのに過ぎないのでは?と。しかし眠りの小五郎として有名になったのもあの少年が来たあたりからだと、毛利小五郎と縁のあるマスターが言っていた。
先日探偵事務所で起こった殺人事件の時もそうだ。あの少年は自ら犯人について行っているし、彼の行動は何かしら意味を成している。
そして新たに浮上した阿笠博士という人物…。実に興味深いと感じたーー…
車は目立つため、少し離れた駐車場を選ぶ。そこから目的の場所までは徒歩を使った。マフラーがまだ必要な時期ではあるが、顔を隠すために少し口元を覆い、何かと目立つ髪色は黒いニット帽を被った。途中視界に入った花屋に立ち止まりそうになるが、横目に入れただけで何事もなかったかのように通り過ぎる。
「あれは…」
安室は掛けていたサングラスを外す。信号待ちしている間、横断歩道の向こう側に面している公園に毛利ハルがいた。ベンチに座り、膝の上に弁当を広げている最中であった。時間的にも昼休憩なのだろう。
余程お腹が空いていたのか、はた又食べる事が好きなのかはさて置き、両手を揃え、待ち侘びたような顔でいただきますとその口は動いた。目の前にご馳走でも広がっているかの如く、その表情は嬉々としていた。箸で摘み上げ玉子焼きをうっとりと眺めたあと、パクリ、と口にする。
「ん〜!」
頬が落ちるほどに上手いと言わんばかりにそこに手を当て、存分に下がった目尻はとても満足そうであった。そんなハルにフッと吹き出してしまう。軽く握った拳で口元を抑えたが間に合わなかった。玉子焼き一つで大袈裟ではないだろうか。それ程までに美味しいのか興味も湧いたが、後日話のタネにするので十分だと青になった信号とともに止まっていた足を動かす。
気付かぬふりをしてその場を過ぎ去ろうとした時に風が吹いた。それは彼女の膝上に引いていたランチクロスが飛んでいってしまう程の強さだった。
それが安室の元に届いたのと、彼女が安室の存在に気づいたのはほぼ同時だった。
「………」
箸で挟んでいた新たな玉子焼きがぽろりと落ちる。白米の上で二、三度跳ね、食そうとしていたその口はぽかんとしたまま固まっている。
「こんにちはハルさん」
こんな所で奇遇ですね、とさも今気づいたかのように掴んだランチクロスを手に距離を詰めれば彼女の時間はようやく動き出したようでその口はあわあわと動き出した。
「あ、ああ安室さん⁉」
「偶然ここを通りかかったもので…このランチクロスはハルさんので間違いないですか?」
「そ、そうです!ありがとうございます!!」
弁当をベンチの上に置き、立ち上がった彼女は安室からそれを受け取る。少し縮まったと思っていた距離は日を置くとまた開いてしまったようで、先程まであんなにも幸せそうな顔をしていたのに初めて会った時のように硬くなってしまった。阿笠博士の情報を知りたかったが、聞き出すのは無理だろうか。
「お昼休憩ですか?」
首から下げている会社のIDが記されたそれに目をやると視線に気づいた彼女が恥ずかしそうに手で隠した後、首から外した。どうやら外し忘れていたようだ。
「はい。天気がいい日はなるべく日光に当たりたくて…」
彼女は緊張しているのを隠すようにぎこちなく笑った。毛利ハルからは常に壁を感じている。
「お昼はもう食べました?」
「いえ、それがまだでして」
けれど彼女はそれをW隠そうWとする。兄である毛利小五郎の弟子だから仕方なく仲良くしている、という訳でもなさそうだが、この違和感はなんであろう。出会った時から警戒されているようだった。まさか…
「玉子焼き…」
「へっ?」
ランチクロスを渡したら早々に立ち去るつもりだったが、安室は少しだけ話をすることにした。組織の存在自体、彼女が知っているとも思えないが念には念をいれて…
「玉子焼き…ですか?」
人様の弁当を見て玉子焼きと呟けば戸惑うだろう。現に彼女の目は明らかに困惑していた。
「あぁ、すみません。先程すごく美味しそうに食べてらっしゃったので…」
「いったいいつから見ていたんですか」
声掛けてくださいよ、と顔を赤くしながらもジト目で睨まれた。しかし安室が「綺麗に巻けていますね」と弁当箱を覗き込めば膨らんだ頬は綺麗さっぱりに消え、代わりに笑顔を向けてくれた。そのほころんだ表情に面を喰らう。
「実は今回かなりの自信作でして!」
ふわふわに出来たのだと熱弁する彼女はとても組織とは無縁に感じた。考えすぎか、と安堵を含めた溜息を鼻から出す。
「美味しそうですね」
「ふふ、食べてみますか?」
軽く言われたその言葉に冗談で言っていることがわかった。まるで安室が初めから断るのをわかっているかのように…。
「いいんですか?」
「えぇ⁉食べるんですか⁉」
やはり安室の返答は彼女からしたら意外だったようで訊いたのは彼女であるのに、酷く驚いた顔をしたあと、しどろもどろに言い訳を口にした。
「その、こう…あ、いや、探偵の人って、他人が作ったのを食べない……わけはないですね。忘れてください」
「なんですか、急に」
言おうとしていたWこうWの部分も気になるが、身近な人物でも思い浮かべでもしたのか話しながら矛盾に気づいた彼女は、自分で自分の言っていることを否定した。
「すみません、大きな独り言です」
「どうして僕が人が作ったものを食べないと思ったんですか?」
「いえ、安室さんみたいなちゃんとした探偵は食べないんじゃないかと思っただけです」
「ちゃんとした探偵って…」
ジッと真意を確かめるようにハルを見つめれば痺れを切らしたように彼女は「本当にたべますか?」と念を押すように訊いてきた。
「喫茶店で働く人間としましては気になるところですね…」
「お店に出すレベルには程遠いですけど…」
観念したのか彼女は弁当箱の蓋を皿代わりにして、玉子焼きをその上に乗せる。そのまま手で食べようとする安室にハルは止める。
「あっ、待ってください。今爪楊枝を…」
ポーチから爪楊枝が入った袋を取り出し、それを安室に手渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ほろほろと柔らかい食感。噛んだ瞬間にだしの味が層の隙間から漏れ出て口の中に広がるのを感じた。彼女の言う通り確かに美味しかった。
「確かに、これは美味しいですね」
「安室さんに言われたら自信がつきそうです」
彼女は照れ臭そうにはにかんだ。
「先程の爪楊枝入れは手作りですか?」
綺麗な和柄で出来ているそれは折り紙のようだった。
「昔…折り紙が上手な子がいて、その子に教えてもらったんです」
少し伏せられた目に映るその楊枝入れを優しく指の腹で撫でる。遠い記憶の友人に思いを馳せているようだった。それに安室の頭にもこれから会いに行く古き友人が浮かび上がった。
よく、咥えていたっけな…
「すみませんが…もう一本いただいても?」
「どうぞ、どうぞ」
「ありがとうございます」
手渡された新しいそれをハンカチで包むと彼女は今すぐ使うものではないそれに首を傾げた。
「何に」
そこまで言って彼女は口を噤んだ。途端寄せられた眉根には哀愁が含まれていた。
「ハルさん?」
「いえ…」
次には物悲しげに微笑み、何を思ったのか手作りのそれごと安室に手渡した。
「好きなだけ、持っていって下さい」
「いえ、全部は…」
どうして…そのような表情をするのか安室は理解出来ず、また問うことが出来なかった。
「ハンカチだとどこかにいってしまいますよ。本数もそんな入ってないですから。いらなかったら処分してくれて結構ですので」
一理ある彼女の言葉に安室は素直に甘えることにした。
「ありがとうございます」
それを懐に仕舞い、昼休憩に邪魔した旨を伝えれば彼女は「お話出来て楽しかったです」と向けられた笑顔にこちらもホッとする。社交辞令も含んでいるのだろうが警戒は少し解かれたようだった。
またいずれ探偵事務所かポアロで会うだろう彼女に「ではまた」と告げ、安室はその場を去った。
降谷は伊達の墓の前まで来ると、先程彼女から頂いた折り紙で作られた楊枝入れからさっそく一本取り出した。
本当は何も痕跡を残してはいけないのだ。だから花も買わなかった。しかし旧友になにも供えないというのも気が引けた。
「これで勘弁してくれ、伊達班長…」
「高木君!こっち!」
人の声がして、降谷はその場を離れる。誰かとの鉢合わせを避けて彼の命日とは大幅にずらしたつもりだったが、まさか彼らと被るとは…。
会話の内容から爪楊枝には気づいたけれどそれ以上はなさそうだ。彼らを物陰から見つつ、降谷はスマホを取り出した。
全てが終わるまでここに来ることはもうないだろう。
メールボックスを開き、彼への冥福を祈るとともに、最後に送られてきたメッセージを削除したのだったーー…。
2021.4.17