泣いて笑ってまた明日
□消え残る記憶
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「はい、お水」
二日酔いの頭を抑え、青い顔でキッチンに入ってきたハルに蘭は水を渡す。
「ありがとう…蘭」
「やっぱり思い出せない?」
「……うん、まったく」
普段どんなに呑んでも酒に呑まれることはない彼女にとって日本酒だけは別でどういう原理でそうなるのかはわからないが出会した人(男性にのみ)に一本背負いを決め込むという奇妙な行動をとる。そして翌日には綺麗さっぱりその時の記憶はない。起き抜けに昨夜の出来事を話せば二日酔いの頭痛にさらに追い討ちをかけたのかハルはしばらく頭を抱えていた。
「本当に被害者は兄さんだけ?」
「うん。お父さんを投げ飛ばした後はコンビニでカゴいっぱいにアイス買ってただけみたい」
ほら。と冷凍庫を開ける。ぎっしりと詰まっているそれにハルは額に手を添え、現実から目を背けるように冷凍庫の扉を静かに閉めた。
「はーー…」
「もういっぱいお水飲む?」
「いや、いいや。それより今日は園子ちゃんと遊びに行くんでしょ?そろそろ出ないと待ち合わせ場所に間に合わないんじゃない?」
「やば!もう出なきゃ!」
「ほら、慌てると階段でこけるよ」
「じゃあ行ってきまーす!」
「園子ちゃんによろしくね。行ってらっしゃい」
後ろ髪引かれる思いもあったが蘭は扉を閉めた。階段を降り、ポアロの看板を見てふと思い出す。しまった、彼に会ったことをハルに伝えていない。
「そういえばどうして安室さんだけはなにもなかったんだろ…?」
まぁ、特に被害が遭ったわけではないから伝えなくても大丈夫かと思い直し、蘭は園子との待ち合わせ場所に急いだ。
カラン、カランーー…と店のドアが開く。いらっしゃいませ、と声を掛けたがドアの隙間から顔を覗かせているだけで中々店の中に入ってこない。
「ハルさん?」
「あっ。梓ちゃん、こんにちは」
「こんにちは。えっと…どうされました?」
「お店混んでるかなーって思ってちょっと覗いてただけ」
ランチのピークを過ぎた今、客は誰もいない。見ての通りガランガランな状態に彼女も気づいたのかようやく店の中へと入ってくる。空いているカウンター席に腰を下ろすとコーヒーを注文した。
「新作のケーキもありますけどいかがです?」
「本当?じゃあそれもいただこうかな」
「かしこまりました」
「コーヒーとケーキ二つずつ注文するからさ、梓ちゃんもどう?」
「え?」
「お客さんいないし、一緒にお茶しない?」
「でも仕事中ですし…」
「ちょっとだけ!ね?」
ちょっとだけなら…と頷くとハルは嬉しそうに笑った。
コーヒーとともにケーキが乗った皿を彼女の前に置き、自分の分もキッチンカウンターに置く。流石に仕事中であるため、隣に座ることは出来なかった。
「久々ですね、ポアロにいらしてくださるの」
「ここのところ少しバタバタしてたからね」
「そういえば昨日、すごい音が天井から聴こえましたけど…ハルさんもしかしてまたやらかしちゃったんですか?」
ケーキを口に運ぼうとしていたハルの動きが止まる。気まずそうな顔をする彼女の表情からどうやら梓の予想は当たっているらしい。
「ごめんね、うるさかったでしょ」
「もしかしてそれも兼ねて今日お茶ご馳走してくれたんですか?」
「うん。お客さんびっくりしてなかった?」
「いえ、もうお店も閉めてましたし、店内には私とマスターだけだったので大丈夫ですよ」
「そっか。それ聞いて安心した」
「また毛利さん投げちゃったんですか?」
苦笑いするハルに梓も同様の表情を浮かべる。
「今朝さんざん嫌味を言われた」
「あはは。二日酔いなのにケーキ平気でした?」
「うん!もう頭痛もないから大丈夫。そういえば結局大尉は梓ちゃんが飼うことになったんだって?」
「そうなんです!写真みます?」
「みるみる!」
スマホを取り出し、大尉がリラックスした顔で寝ている写真をハルに見せる。
「わー!可愛いねぇ」
「最近は帰ってくると玄関で出迎えてくれるんですよ」
「1日の疲れも吹っ飛んじゃうね」
「そうなんですよ〜!毎日すごく癒されてます」
「実は私にもそういった癒しがありまして…」
ハルもスマホを取り出し画面を梓に向ける。ゴロちゃんの写真かと思いきや、そこに写っているのは小さな女の子だった。
「もしかして…小さい時の蘭ちゃん?」
「あたり!仕事で疲れた時は大体この写真眺めてる」
「フォルダにWベストオブRANWと書いてあるんですが…」
梓の指摘にハルは恥ずかしそうに頬をかく。
「実は毎年ベストオブショットを選んでそれだけ残すようにしててさ。本当は全部残しておきたいんだけどね…容量いっぱいになっちゃうから」
「じゃあもうしかして産まれたときからあるんですか?」
「うん!17枚の蘭の写真がこのフォルダには入ってる」
0歳から見せてくれた彼女の写真集。すると途中から小さな男の子も一緒に写るようになってくる。
「このコナン君に似てる男の子って…」
「あぁ!小さい時の新一くんだよ」
「そういえば幼馴染なんでしたっけ?」
「うん!蘭が四歳の時からずっと一緒にいる」
次々にスライドされていく写真には全て工藤新一もセットで写っていた。
「だんだん蘭ちゃんと新一さんのパパラッチみたいになってきてますけど…大丈夫ですか?」
「一応隠し撮りではないから許して欲しい」
ハルの意外な一面に驚きながらも梓は笑う。珍しく客は来ず、二人でささやかなティータイムをしばらく楽しんだのだった。
安室は夜の下拵えも考慮してシフト時間より少し早めに出勤する。バックヤードから顔を出すと梓がちょうどカウンターテーブルの食器を片しているところだった。
「安室さん!早いですね!」
「えぇ。夜の準備手伝おうとおもいまして」
「助かります」
下の棚から小麦粉を取り出すため、身を屈める。すると洗い物をしている梓が「あっ」と何かを思い出したように声を発する。
「実は先ほどまでハルさんがいらっしゃってたんですよ」
その名前に小麦粉の袋を手にしたまま固まってしまう。しかしすぐさま何事もなかったかのように袋をキッチンテーブルの上へと置いた。
「へぇ。毛利先生たちとは一緒ではなかったんですか?」
「はい。昨夜は皆さんいたらしいですけど朝になってそれぞれ用事があったようで。昨日のことも気になって顔を出してくれたみたいです」
「昨日…」
「あっ!安室さんはもう上がりでしたよね」
あまり言いふらしてはいけないと思ったのか梓はハッと口元を手で押さえた。
「いえ、実は帰り際にお会いして、蘭さんから日本酒を呑んでしまったと…」
「よかった…!蘭さんから聞いてたんですね。そうなんです。それで昨日の夜は大変だったらしいですよ。ハルさん自身にその記憶はないみたいなんですけど」
小麦粉、牛乳、卵が入ったボールをかき混ぜていた安室はその手を止めそうになる。てっきり今日店に来たのは昨日のことも兼ねて自分に会いにきたのだと思っていた。
覚えてないのか…。
落胆している自分に気づき、安室はなにを残念に思う必要があると自嘲する。記憶がないほうが都合がいいではないか。そう己に言い聞かせ、安室は感情を押し込めるようにボールに入っている生地を無心でかき混ぜたーー…。
「じゃあ、またね。梓ちゃん」
「はい!コーヒーとケーキご馳走さまでした。またいらしてくださいね」
梓の言葉にハルは笑顔で肯く。店の扉が閉まったと同時に緊張していた心を一気に解放する。帰ったら部屋の掃除をして、それから夕飯の準備を…
「………」
歩みを止め、はぁ、と短く息を吐く。出たため息には少しの熱と重さを含んでいた。
夢の中にいるようなふわふわとした感覚の中でうっすらと覚えている。
柔らかい髪の感触。
両手に残る微かな記憶。
広げた両手を閉じ込めるようにそっと握りしめる。涼しい風が熱くなっている頬を冷ますように吹き抜けていった。
いつもは記憶なんてないくせに…何故今回に限って…。
安室に会わなくて正解だったかもしれない。思い出しただけでこの有様だ。覚えていないと言っても彼にはすぐバレてしまうだろう。
どうせなら全て忘れている方が楽であったとハルは思うのだったーー…。
2021.11.3