泣いて笑ってまた明日

□風の女神
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赴任先の職場や新生活にもやっと慣れ、精神的にも少し余裕が出てきたため、今日は通勤途中にあるいつも気になっていた居酒屋に足を踏み入れてみる。

「らっしゃいやせー!」

店員に一人であることを伝えると、カウンター席に案内され、おしぼりとともにメニューを渡される。

明日は休みだし、存分に飲もう。ビールは絶対頼むとして、串焼きとあとだし巻き卵と…

「そういえば開いた傷口はもういいのか?」

「ん?ああ…五針なんてただのかすり傷なようなもんだし」

「医者に診せに行ったらこっぴどく叱られたそうじゃないか」

「医者が大袈裟なんだよ」

ふと隣席から聞こえてくる男女の会話に意識が向く。とくに男の方、どこかで聞いたことのある声のような…

「それより重吾、私の行きつけの店の味はどうだ?」

「美味い…けどよ」

「だろ?お前に任せると前みたいな店にされると思ったからな!」

「なっ…!あそこだってお前がちゃんとした格好で来さえすりゃあ、美味いと評判の飯がなぁ…!」

「横溝警部…?」

大柄で坊主頭の男がこちらを向く。ハルを捉えると気怠げに半分閉じていた瞼が驚いたように少し持ち上がった。

「お前はあの煙の小五郎んとこの」

「眠りです」

「なんだ重悟知り合いか?」

巨体の陰からひょこりと顔を出した女性。そのあまりの美しい容姿に思わず見惚れてしまう。

「ああ千速…この間、眼鏡の坊主と一緒にいたちょびヒゲの男がいただろ」

「あぁ…そういえばそんな男が居たな」

「その妹だよ」

「は、はじめまして。私、毛利小五郎の妹の毛利ハルです」

「萩原千速だ」

よろしくと差し出された手にハルも手を伸ばす。ガタイの良い彼が隣にいるのも合間ってとても華奢な体付きに見えるのに優しく握り返されたその手はとても力強く、鍛えていることがわかった。

「それより一人か?」

彼がキョロキョロと警戒したように見回すのも無理はない。彼のいう眼鏡の坊主や、眠りの小五郎が一緒にいたら間違いなく事件を引き連れてくるのだから。

「安心してください、私一人です。転勤で横浜に引っ越してきたんです」

「そうだったのか」

「萩原さんは…」

「千速でいい。なんだ」

「あっ…えと、千速…さん?もコナンくん達を知ってるんですか?」

「こいつも同業でな」

重悟の話によると彼女は神奈川県警交通部の第三交通機動隊の小隊長だそうで、人違いで誘拐されてしまった阿笠を千速の白バイでコナンと追跡し、無事犯人逮捕に至ったのだそう。そういえば蘭から事の詳細をメールで教えてもらった際に風の女神のような人に助けてもらったって書いてあったっけ…。

「で、次に会ったのが東京の婚活パーティーだったな」

「バッ…!」

途端重悟が慌てた様子で話の先を遮ったが、耳聡くハルはそれを聞き返す。

「婚活パーティー?」

重悟の苦々しい表情を読み取るにあまり知られたくなかったもよう。二人が醸し出す雰囲気から付き合ってるとばかり思っていたが、どうやら違うようだ。

「女性はタダで美味い豪華な飯が食えると聞いて私は親友と参加したんだ」

中々に変わった仕様のパーティーだったようで、素顔を隠すために仮面をつけての参加が条件なのだとか。そこでふと疑問に思う。婚活パーティーということはコナンたちの誰かがそれ目的で行ったということで…。コナンと蘭は除外するとなると残るは…

「まさか兄が…独身と偽って…?」

信じられないと口に手を当てると重悟が軽く手を振る。

「まてまて、そこまで落ちぶれちゃいねーだろ。たまたま店の近くにいたんだよ。害者を見たスタッフが悲鳴上げて、それを聞きつけて店に入って来たんだ」

重悟の言葉にホッと胸を撫で下ろす。一概にそうとも言えないのがうちの兄であるからだ。

「そうだったんですね。身内が大変お世話になりました」

「いや、助けてもらったのはむしろ我々のほうだ。特にあの少年には…」

彼女の含みのある言い方に小首を傾げる。少し下を向いた長いまつ毛にはどこか悲しい空気が乗せられていて…。重悟が何か口を開きかけたとき、まだ注文していなかったハルのもとに店員がやってきた。

「あっ、じゃあとりあえずビールで…」

数分もしないうちに置かれたビールとお通し。それを見た千速が先程の表情とは一変、今度は嬉しそうに少し泡が減った自分のビールを掲げた。

「それよりこれも何かの縁だ!今夜は一緒に飲もう!!」

「でも折角お二人で来られてるのに…」

「気にするな!飯を食う時は人数が多い方が美味い!」

本当に?と重悟の方をチラッと見る。

「………」

だいぶ邪魔しやがってという顔を向けてきますがいいんですか⁉︎それに今小さく「やっぱり死神一家だ…」なんて呟きましたが⁉︎本当に大丈夫なんですか⁉︎

「乾杯!!!」

ハルと重悟の微妙な視線のやり取りなど気にも止めずに打ち鳴らされたジョッキ。並々に注がれたビールの泡がフチから溢れ、ハルは慌てて口をつける。
その美しいお顔立ちからは想像出来ないほどに彼女は豪快で明るくて。どこか人を惹きつける魅力のある不思議な女性。
ここに引っ越してまだ知り合いも少ないハルにとって一緒に飲める相手がいるというのは嬉しいもので。重悟には申し訳ないがこの楽しい空間に少しわくわくしていたーー。




「婚活パーティーってことは…お二人はお付き合いされてないんですか?」

乾杯をしてから数時間。お酒の力も合間って張っていた気がゆるゆるに緩みはじめたころに気になっていたことを口にしてしまう。串焼きを食べていた重悟が隣で思い切り咽せた。対して千速は頬杖をつきそんな彼をニヤニヤと見つめている。

「私はてっきりハルが重悟のこれかと思ったぞ」

「ハァッ!?」

ドンッ!と重悟が枡酒のグラスを勢いよく置く。ヒックと吃逆をしながら重悟とハルを交互に見つめる彼女の頬も若干赤い。小指を立てている姿は完全に昭和オヤジだった。

「姫、そんなことをしてはいけません」

見目麗しい彼女の手をそっと握り小指をしまう。彼を挟んでイチャついていると彼のコメカミにある青筋がさらに深くなったので、ハルはすぐさま訂正する。

「付き合ってません。それに今は恋より仕事に生きるって決めてるんです」

「ほぅ〜。想いは伝えたのか?」

「はい…フラれてしまいましたが…って、え?」

好きな人がいるなんて一言も言っていないのにどうして…。すると彼女の口端はフッと上を向いた。

「W今はWと言ったからカマをかけただけだ」

「これだから警察関係の人と飲むのいやなんですよ」

口をへの字に曲げると千速が可笑しそうにケラケラと笑った。

「でも、後悔はありません」

「そうか」

時折抱きしめられた時の記憶が去来するが、私生活が忙しかったお陰でだいぶ気は紛れた。数ヶ月も前の出来事なのについこの間のことのように思い出されてしまうのは少し困ったところだが、彼を忘れるにはまだまだ時間が必要ということなのだろう。

「ハル」

「は…」

はい、と出かかった声は千速の真っ直ぐな瞳に飲み込まれてしまう。

「嘘だな?」

「えっ?」

「後悔していないなら、なぜそんな顔をする?」

ジョッキグラスに反射した自分の顔。笑っていた筈の口角はいつの間にか下がっており、今にも泣き出しそうな自分が映っていた。

「まだそいつを好きなんだろ?」

「…っ…」

ハルは言葉に詰まる。否定したいのに、虚勢を張ったところでこの真っ直ぐな瞳の前では意味をなさない気がして何も口に出来なかった。

「おい、千速…」

「ハル」

「………」

キュッと唇の両端を堅く結ぶ。確かに、今でも彼が好きだ。けれど散々に彼を振り回してしまったことを忘れたわけではない。今更どのツラ下げて…だ。それに告白すると決めたのも、離れると決めたのも自分。後悔なんて…。

口を噤んでいると彼女はもう一度「ハル」と優しく、柔らかく名を呼んだ。

「あきらめるな」

「…っ…」

「あきらめる必要は全然ない」

グッと目尻に力を入れた。酔っているせいか、涙腺がいつもより緩くなってしまっている。気を抜くと泣いてしまいそうだ。

「ち…はや、さん…でもっ」

「亡くなった弟が、昔私に言った言葉だ」

「えっ…」

お…とう、と…?

そこでハルは目を見開いていく。W萩原Wってもしかして…

「よし!!今ここでそいつに電話をかけろ!」

…………ん?

「…………えっ、」

「安心しろ、私が見届けてやる!」

「千速、お節介が過ぎるぞ!お前、酔ってんのか?」

「私がこのぐらいで酔うわけなかろう」

ヒックと鳴る喉に何の説得力もない。

「おい、毛利の妹!気にしなくていい!店主!そろそろ勘定を…」

「スマホ貸せ!どこだ?」

テーブルの上に出しっぱなしにしてあるのを慌てて隠そうとすれば光の速さで取られてしまう。

「待ってください!」

「千速!」

二人でスマホを取り返そうとするが素早い身のこなしで避けられてしまう。

「ちっ!パスワードか!顔貸せ!」

「わっ!」

「千速やめろ!」

顎を持たれ簡単にパスワードは解除されてしまう。隙を狙って手を伸ばすが、またひらりと交わされてしまった。
あー!もう!顔認証なんかにするんじゃなかった!!っていうか!あれ!?警察だよね!?

「よし開いたぞ!どいつだ?ん?この安室透ってやつか?名前の後に♡がついてる」

「やめてあげなさい!」

ハルは恥ずかしさのあまり顔を両手で覆う。未練たらたらなのがバレてしまった。いや!明日あたりに消そうと思ってたし!忘れようと思ってたのも本当だし!

「よし!かかったぞ!」

「ッ!!?」

「腹を括れハル」

口を開けたまま絶句しているハルの肩に千速の手が乗る。

「どうしたんだ。いつもはそこまでしないだろ?」

「…なんかわからんが、そうしないといけない気がして。…ん?安室透か?待て、今本人に代わる。ハル出たぞ」

差し出されたスマホ。『安室透』と表示された画面に突き返したくなる。まったりと楽しんで飲んでいた雰囲気とは一変。どうしてこんなことに。

「と、とりあえず一旦水を飲ませてください!」

今にも口から出そうになっている心臓を少しでも押し込めたくて、ハルは目の前にあったグラスを手に持った。

「おい…!」

そこから意識がぶっ飛んだーー。







見知らぬ天井。重い瞼を数回上げ下げして、ここが何処なのかを思考を巡らす。しかし残る気持ち悪さと頭痛で頭は働かず、ハルは頭を押さえながらゆっくりと体を起こした。

「えっ…」

脱ぎ散らかされた衣服にギョッとする。そしてよくよく耳を澄ますと聞こえてくるシャワー音。背筋がゾッとした。

えっ…まって…?
まって、まって?えっ、まって!?

顔面蒼白になりながらシーツを捲る。着ている服にホッと胸を撫で下ろすが、状況は一ミリも変わってない。

「あれ、この服…」

脱ぎ散らかしてある服に見覚えがあった。
じゃあ今シャワーを浴びてるのって…

シャワー音が止む。浴室らしき扉が開く音とともに聞こえる足音。ハルは意味もなくシーツを手繰り寄せてしまう。

「起きたのか?」

「……お、おはようございます、千速さん」

「昨夜は悪かったな」

バスローブに身を包み、長い髪をバスタオルで拭きながら千速はベッドに腰掛ける。

「覚えてるか?」

「あ、あの…私たち、その…もしかして一夜の過ちを…?」

「落ち着け。酔ったお前をここに運んだだけで、何もしていない。しかし…まぁ…」

クツクツと肩を揺らして笑っている千速にハルは訳がわからず目を白黒させた。

「お前、あの重悟に一本背負いを咬ましたんだぞ」

「………」

白目を剥きそうになる眼球を必死に留める。嘘でしょ?まだ夢?しかしつねった頬は残念ながら痛かった。

「私、もしかして日本酒を口に…?」

「あー、そういえば直前に水と間違えて重悟の枡酒を飲んでたな」

ドタバタの中、店員が伝票とともに持ってきてくれたお冷を飲んだつもりだったのだが、どうやらそれが日本酒だったようだ。

「あの、それで横溝警部は…」

無事だったんだろうか。

「店が縦に揺れるほどの衝撃だったが、本人はきちんと受け身をとったから問題はない」

「絶対怒ってる」

「W兄妹そろって特殊な特技をお待ちでWと重悟も笑いながら言ってたぞ」

「それ絶対笑いながらキレてるやつじゃないですか」

やってしまったと項垂れる。後日、菓子折り持って誤りに行こう。

「それより悪いが私もそろそろ仕事でな。ホテル代は済ましてあるから時間までゆっくりしていたらいい」

「あ、あの!払います!昨夜の飲み代だって…」

ちゃっちゃと脱いだ服を着ていく千速。見てはいけないと思いつつもそのナイスなプロポーションに目は釘付けになる。気づいたら彼女はもうドアのところまで歩き出していた。

「迷惑料だとでも思って受け取ってくれ。それよりスマホ」

「スマホ?」

「メッセージ、来てるんじゃないか?」

「え?」

「じゃあな、ハル。また飲もう」

バタンと閉められた扉。訳がわからず放心していると枕元のスマホが目に入る。来ているメールの通知。その送り主の名を見てハルは二度見する。

『安室透』

途端、呼吸は少し浅くなる。恐る恐るメールを開けばそこにはとても短く、一言だけ添えられていた。

【わかりました】

「………」

えっ?なにが?

Wよし!!今ここでそいつに電話をかけろ!W

思い出したくない最悪のタイミングで蘇る記憶。吐きそうになるのを堪えながら通話履歴をタップする。そこで枕に額を押し付ける。

電話してる。しかも2分弱も。全く覚えてない。なに話したの?WわかりましたWってなに?え?こわいこわいこわい。敬語なのも怖いし、でも記憶がないので教えてくださいなんてそんなこと聞けないし。

「どうしたらいいの⁉︎」

ハルはチェックアウト時間ギリギリまで顔を上げることが出来なかった…。


そんなーー

記憶から抹消したい出来事を抱えながら月日は流れ、二回目の春を迎えようとしていたーー。

2023.05.14


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