小さくなった安室くん
□Fin
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誰かが私の頭を撫でている。
「ナノカ…」
優しい声。でもどこか寂しそう。
「ナノカ、起きて」
「んっ…」
耳元から囁かれる甘い声。耳に掛かる吐息がくすぐったく身を捩る。薄く目を開けても部屋の中はまだ暗い。陽が登る前だとわかると、目はまた自然と閉じてしまう。買ってもらった布団は贅沢にもふかふかで暖かく、ナノカをまた夢の世界へと誘っていく。
「キス…してもいい?」
「はーい、はいはい、今起きましたよー」
頬に顔を近づけている彼を無理やり押し退ける。それで一気に頭が覚醒するのだから不思議なものだ。中毒性のある布団からナノカは無理やり這い出たのだったー…。
「準備できた?」
「うん!お待たせ!」
「はい、これ帽子」
ポスッと被せられたキャップ。手で押さえ首を傾げると、彼も同じようにこてん、と頭を傾けた。
「うん、似合ってる」
「…っ…」
何気ない言葉でも心臓が痛いほどに跳ね上がる。帽子を目深に被り、口元が変に緩んでしまいそうなのを隠した。
「ど、どこに…いくの?」
「海」
「海?こんな時間に?」
「うん。チヌを釣りに行こうと思って」
W釣りWの言葉にナノカの表情は明るくなる。
「わぁ!楽しみ!チヌって…クロダイのことだよね?」
「そう、見たことある?」
「刺身の状態か、もしくはたぶん水族館…」
「ハハッ、素直でよろしい」
ご主人が帰ってきたのと、散歩に行けることで大喜びのハロを抱き抱え、車に乗り込む。
揺れる釣り道具。後部座席に乗せられているそれを横目に入れ、彼から久しぶりの釣り講座に耳を傾ける。
「チヌは鳥や大魚を避ける為に、夜間に捕食活動することが多いんだ」
「夜行性ってこと?」
「うん。まぁ海が濁ってなかったら…だけど。因みに日の出前と日没後の時間帯が一番釣れる」
「だからこんな暗い時間から行くんだね。チヌだとエサは何使うの?」
「この時期だと甲殻類や小魚…かな」
「え?時期によって違うの?」
「うん。チヌはね、季節によって食べるものが違うから餌もそれに合わせる必要があるんだ」
「へぇー!そうなんだ!」
釣り方も季節によって変えた方がより多く釣れるのだとか。ちなみに今シーズンだと落とし込み釣りというのがいいらしい。
暫く車を走らせ見えてきた海に、窓を開け、ハロと一緒にほんの少しだけ顔を出す。外はまだ暗いが微かな潮の香りに心は弾む。車を停め、釣り道具を持って堤防まで来るとそこに人はおらず、自分たちだけであった。
堤防に腰掛け、魚が掛かるのをひたすらに待つ。波が堤防壁に当たりちゃぽちゃぽと音を立てる。海や風の音意外に余計な音は存在せず、心地がいい空間に耳を傾ける。
「子供の頃は…親友と…よく釣りに来てたんだ」
海の先を見つめる彼がぽつりと言葉を落とす。その横顔はどこか寂しそうだった。
「今は行かないの?」
「うん。もう…来れないかな」
それが何を意味しているのか。それ以上踏み込んでいいのかナノカにはわからなかった。寂しそうに海を見つめるその瞳だけが答えだと思った。
「そっか…それは…さびしいね」
「うん…」
儚げに笑った彼の横顔。その親友とは喧嘩別れでもしてしまったのだろうか。
「気になる?」
ジッとナノカが彼を食い入るように見ていたからだろうか。ちらり、と彼の横目がナノカを捉える。
「気になるよ」
うん、気になる。
「訊きたい?」
「ううん、訊かない」
だって、
「どうして?」
だって、
「君が…泣きそうだから」
ぴくり、と竿を持つ手が揺れ、釣り糸の先が震える。
「泣きそう?…僕が?」
「うん…」
「悲しい顔なんて…してない筈だけど?」
「そうなの?」
「そうだ」
「そっか…じゃあ、私の勘違いだ。勝手にそう思って…ごめん」
「…っ…」
彼は俯き、視線はまた暗い海へと戻ってしまう。しまった…。変な空気にしてしまった。
ナノカを起こしにきた時から彼の様子はどこか変だった。どことなく、元気がなくて…。そこでハッと額に手を添える。支度に急いでいて出かける前に線の長さを確認しなかった。
あと、どれぐらい残ってるーー…?
「嘘だ」
「え?」
彼がか細い声でそう口を切った。額に触れていた手が力なく下ろされていく。海を眺めている寂しげな瞳が微かに揺れていた。
「僕は…君に嘘をついてる」
あんなに心地の良かった波の音は今は押し寄せてくるように聴こえてしまう。
「仕事も…探偵じゃないんだ」
ナノカは何も言わず、黙って彼の言葉に耳を傾ける。釣り糸の先が微かに生む波紋は彼の手が震えているからだ。
「僕は、警察の人間で…訳あって今は潜入している身なんだ」
今までずっとナノカにひた隠しにしていた彼が真実を告げている。あぁ、彼も、額の線の存在に気づいているのだと…頭の傍らでぼんやりと思った。
起きる直前にナノカの頭を撫でていたのは夢などではない。彼が額の線を確認していたのだ。
タイムリミットが近いのだと…悟った。
「安室透という人間は存在しない。けど降谷零として公に生活することも出来ない」
ハロが彼の異変に気付いて心配そうに体を擦り寄せている。それを彼が優しい手つきで安心させるようにその背を撫でる。
それを見てどうしようもない愛おしさが生まれていることに気づく。
「僕は…君がこの世界に来てくれたこと…ずっと、好都合だと…思っていたんだ」
「好都合…?」
「戸籍もなく、多田野ナノカだと知る人間が一人もいないこの世界なら身分を偽る僕のそばに置いても何ら問題はない…と」
ハァ、と出されるため息からは嘲笑が入り混じっていた。
「君が、悩んでいることは知っていた。不安になっていることも。でも僕は気づかないフリをして、どうしたら君が僕に依存してくれるかそのことばかり…」
「どうして、わざわざ私に嫌われるような言い方ばかりするの?」
彼の言葉を遮り、先ほどから感じていた違和感をぶつける。
どうして、わざわざ自分を蔑むような言葉ばかり…選ぶの…?
黒い海を見つめていた彼がようやくナノカを見た。Wあの時Wと同じ顔をしていた。
「君を…愛して、しまったから」
「…っ…」
あの時と同じ、辛そうに寄せられた眉。苦しそうな声。
「君を、手放したくないと…思ってしまったから」
愛を説かれている筈なのに胸をつんざくような痛みが走る。いっぱいいっぱいになった心は零れ出すようにナノカの目から涙が溢れ出てくる。
「私…きっともうすぐ…元の、世界に帰っちゃう…」
うん…と全てを悟ったように頷く彼。
「もう、二度と会えないかも…しれないんだよ?」
「わかってる」
「…っ…」
キュッ、と唇を硬く閉じる。彼はそれでもナノカと一緒にいたいと願ってくれている。未来のない関係だとか、報われない気持ちだとか、そんなことを言い訳にして逃げていた自分と違い、彼は真っ直ぐに気持ちを伝えてくれている。
自分も逃げずに、それにきちんと応えなくてはいけない。
「好き…」
水平線を超えた太陽が彼の瞳を照らす。
「私…零くんが…好き」
泣きそうな顔で笑った彼。伸びてくる手がナノカの頬に触れ、涙を拭う。
見つめ合う瞳。互いに目を閉じ、ゆっくりと重ね合わさった唇は少し冷たかった。
「帰ったら…君を、抱きたいんだ」
いい?と訊ねる彼。ナノカの顔は赤く染まる。けれど応えるように目を閉じ、ゆっくりと頷いたーー…
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