小さくなった安室くん

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朝ご飯の匂いに目を覚ます。見知った天井にあぁ、ここは自分の家だ、なんて当たり前のことを思う。どうやらまだ寝ぼけているようだ。

ふわふわと夢見心地のままベッドから足を下ろす。ドアの隙間から覗くと小さな男の子が椅子を台にしてキッチンの前に立っている。

「透君」と声を掛けたいのに口は鉛のように重く、うまく言葉を発せない。

段々と白く霞んできた視界。遠ざかっていく彼にやだ、だめ!と手を伸ばす。気づいた彼が椅子から降りて、こちらに駆け寄ってくる。

「ナノカさん」

小さな手がナノカの手を掴む。

「仕方がないから握っていてあげます」

優しく微笑み、ナノカの手を引く。朝ごはんが出来ているというのに案内されたのはベッドだった。寝るよう促がしてくる彼に疑問を抱きながらもその小さな手の温もりにナノカは安心したようにベッドに潜り込む。

「どこにも…いかないで…?」

どちらが子供かわからないそれに安室は困ったように、でも少し寂しそうに笑った。その笑顔に泣きそうになる。お別れが近づいている。元の世界に帰ってしまうことを…私は、知っている。帰りたく、ない…帰りたくないよ。透くん。

ふと、元の世界に帰るのは彼の筈なのに、どうして帰りたくないなんて思うのだろう。しかし強い眠気に襲われた頭はそれ以上深く考えることが出来なかった。

この小さな手を離したくないとナノカは思ったーー…




「っ!!」

飛び起き、暗い部屋を見渡す。ここは、どこ…?と未だぼんやりしている頭は自分の家ではないそれに混乱する。畳の匂いを間近で感じ、ベッドで眠る安室の姿を目に入れ、徐々に冷静になっていく。あぁそうだった。ここは彼の家であったと時刻を確認すれば日付を跨いだばかりだった。

何やら嫌な夢を見ていた気がする。べったりと背に張り付く汗が気持ち悪かった。汗で急激に体温が下がったのか体はぶるっと震える。彼が貸してくれた予備のスウェットに手を伸ばし脱衣所へと向かう。包まれる彼の匂いに心は少し落ち着きを取り戻していく。

喉の渇きを覚え、ナノカはコップに入れた水を一口、口に含む。こくん、と冷たい水が喉を潤していった。ぼんやりと蛇口に垂れ下がる水滴を見つめる。寝ていた筈であるのに体はどっと疲れを感じた。。コップは明日洗おう、とシンクの上に置き、はぁ…と体の力を抜くように頭を垂らす。

寝よう。

寝てしまえば迎えた朝には忘れているだろう。全く眠くはなかったが寝袋に体を入れ、無理やり目を閉じる。しかし頭が妙に冴えてしまって眠りにつくには時間がかかりそうだった。

「どうした?」

その声にびくり、と肩が跳ねる。閉じた瞼を慌てて開ける。彼はこちらを窺うようにベッドから起き上がっていた。

「ごめん、起こしちゃった?」

「そんなことは気にしなくていい」

「喉が、乾いちゃって…」

嘘はついていない。はっきりとは覚えていないが胸に残る苦々しい気持ちは未だこびりついているのは確かだ。しかし覚えていない夢を話されても彼も困るだけだろう。

「服を着替えたのか?」

「寝汗が凄くて…寝袋が少し暑かったみたい…」

「本当は?」

「え?」

「本当のことを言って?」

「…っ…」

「顔色は見えなくても、声だけで君が元気がないことぐらいわかる」

ひくり、と喉が少しヒクつく。まだ、彼の目を見る勇気はない。

「ゆ…夢見が悪くて…」

「夢?」 

「うん…悲しい夢だった気がするんだけどよく覚えてなくて…。でもお水飲んだら落ち着いたからもう大丈夫だよ」

心配してくれてありがとうと言っても安室は納得していないのか、ジッとナノカの表情を窺うように見ている。

「本当にもう大丈夫だから」

誤魔化すように小さく笑い、最後におやすみと言って無理やり会話を終わらせた。大丈夫。このまま目を閉じて、朝になれば全て忘れてる。もういい大人なのだからこれぐらい自分でどうにかしないと…

微かな布擦れの音。ぎしり、とベッドが軋む音がしてナノカは閉じていた目を開ける。彼が掛け布団を持ってこちらに向かってきていた。

「えっ…?」

「暑くて汗をかいたんなら、風邪をひく前に本当はベッドで寝たほうがいいんだけど…」

「…えっ、ちょ、」

「頑固な君は絶対に僕の言うことなんて聞かないだろうから、僕がこっちにくることにする」

「ゆ、床で寝るの⁉」

寝袋から起き上がると彼がナノカの肩を掴み、無理やり寝かせる。

「はいはい、良い子はもう寝るよ」

ナノカの隣に寝転び、彼はぽんぽん、とあやすようにナノカの胸より少し上を優しく叩く。

「こ、子供みたい…」

「僕を子供扱いした仕返しだ」

「本当に子供だったじゃない」

ナノカの言葉に彼はくつくつと可笑しそうに笑う。律動的な振動に何故だか目蓋が重くなっていく。

「眠れそう?」

「悔しいけど…眠れそう」

「仕方がないから手も握ってあげるよ」

「そ、そこまでしなくても寝れるよ?」

「いいから。僕がそうしたいんだ」

君が眠りにつく少しの間だけ、と差し出された手をジッと見つめる。彼とホラー映画を見た時がフラッシュバックする。小さい手だったけれど、その手はナノカを安心させてくれた。

「…っ…」

躊躇いがちに寝袋から手を出し、彼の手の平の上に重ねる。大きな温もりのある手がナノカを包み込む。胸にあった禍々しい気持ちが晴れていく。気づいたらナノカは眠りについていたーー…






「おはよう、透君」

ハロくんもおはよう、とまだ眠いのか彼女の口調は少し辿々しい。

「おはよう」

「昨日は、その…ありがとう」

「よく眠れた?」

「うん…お陰様で。透君は体痛くなってない?」

「僕は大丈夫」

顔はスッキリしているが、夜中に目が覚めたせいだろうか。まだ眠そうな彼女に安室は困ったように笑う。

「…っ…」

ナノカは未だ安室の白いスウェットをパジャマにしているのだが、大きいせいか丸首から肩が露わになる。目に毒だな、と咳払いを一つして安室はキッチンに視線を戻した。

「いい匂い…」

彼女が朝ごはんを用意する安室の隣にやってくる。朝食の内容が気になるようだった。

「ッ!!」

「わー!美味しそう!一口、食べてもいい?」

「だ、ダメ…です、」

「なんで敬語?」

「…っ…」

「透君?」

「…今日…お布団と、寝るときの服…買いに行こう」

「え?でも…」

「寝心地の悪い寝袋のせいで怖い夢をみたのもあると思うけど?」

「そ!…んなこともない、と思うけど…」

「それに寝袋のままだといつか風邪を引くし、服もあったことに越したことはない」

「たしかに透君のスウェットを借りっぱなしは悪いもんね」

「悪くはない、けど…心臓に悪い…」

どういうこと?と見上げてくるナノカに安室は明後日な方向を見て誤魔化した。彼女がフライパンを覗き込んだとき、弛んだ襟の隙間から胸元がガッツリと見えていた。無防備すぎる…。よく耐えたと己を褒めたーー…





ホームセンターにやってきた二人はここでも揉める。良いものを買おうとする安室と寝るだけなのだから安いものでいいと首を振るナノカ。

「君は本当に頑固だな」

「自分が使うものだと考えるとね…」

「人生の大半を人間は寝て過ごすんだ。ちゃんとしたものを選ばないと腰を痛める原因にもなる」

「それは、そう…だけど…」

「それに君だって、それなりの物を買ってたじゃないか」

「うっ…」

それを言われてしまうとナノカは何も言い返せなくなってしまう。

「それと同じことさ」

「わた…」

咄嗟にでかかった言葉にナノカは慌てて口を噤む。

「ん?」

「あ、ううん。なんでもないよ。ありがとう」

「今店員を呼んでくるから、ここで待ってて」

店員を呼びにいく彼に、わかった、と手を振る。遠ざかるその背に振っていた手は徐々に萎れていくように下ろされていく。

W私が居なくなった後…その布団は他の誰かが使ってしまうの?W

どうしてそんなことを言おうとしたのだろう。これではまるでまだ見ぬ彼の恋人に嫉妬しているみたいだ。嫉妬なんて…。同じ世界の人と幸せになったほうが絶対に良いに決まってる。勘違いだとナノカは自分にそう言い聞かせ、口走った自分の唇を指で触れた。


next→ Fin
2021.2.16


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