斬バラ!小説

□聞こえないよ、まだなにも
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以蔵に手を引かれるままに、椿は走っていた。
賑やかな祇園から離れ、いつの間にか人気のない道へと辿り着いた二人の足が自然と止まる。



「っ……あ、ははっ」



どうして自分たちもがあの場から逃げるようにここまで走ってきたのか。
考えてみれば、椿は笑いが込み上げてきた。



「何もしてないのに、なんだか悪いことしたみたい」
「すまない……」



冗談で言ったつもりなのだが、椿の言葉に以蔵はサッと表情を曇らせた。



「ただの冗談。気にしないで。それにまたこうしてあなたと話がしてみたかった」



これは心からの本心だ。

やっと言えた思いに、以蔵は、あのはじめて会った時に見せた笑顔のように
「私もだ」と椿に向けて微笑んだ。

以蔵と共にあてもなく歩いていた椿は、そこで以蔵の、祇園へ来ていた事情を彼女の話から察することができた。
おそらくは新撰組について探っていたのだろう。
そんなことを面と向かっては言えず、ただ口籠る椿。



「着いたぞ」
「……?」



以蔵の掛け声に顔を持ち上げれば、そこには一軒の宿屋があった。
どうやら彼女はあてもなく歩いていたわけではなかったらしい。



「ここは?」
「今、私たちが世話になっている宿だ」



私たち?

少し引っ掛かった言葉に椿が首を傾げていれば、以蔵は宿屋の戸を開ける。



「あら岡田はん、帰ったんどすか」
「お龍さん、先生は?」
「二階で才谷はんと飲んではるよ」



盆に乗る銚子を今からその二階に持って上がるのだろうか。
宿屋の者だろう、前掛けをかけた女性は、以蔵の傍に佇む椿に気が付くと目を瞬かせた。



「岡田はんのお連れはん? ちょうどええ、岡田はん確か夕げまだでっしゃろ。
 支度するさかい、あんさんも良かったら食べていき」
「え……あ、はい」



二コリと微笑まれ言われては、頷かないわけにはいかない。
椿が以蔵を見やれば、彼女もお龍に同意するかのように頷いている。
悪いとは思いながらも、椿は二人の好意に甘えることにした。

早速二階へ駆け昇って行くお龍の背を見届けてから、椿も案内されるままに以蔵のあとについて行く。
ひと際声が聞える部屋の前に立ち止まると、おもむろに以蔵が振り返った。



「すまない、先にあちらの部屋に行っててくれないか」



「すぐに戻る」と続く言葉に、「わかった」と頷くつもりでいた椿だったが、
突然開かれた襖にそれは遮られた。
襖を開けた男は一瞬驚いたように目を丸くしたが、以蔵を見ると優しく目を細める。



「お帰り以蔵。随分と遅かったね」
「先生、」



あきらかに以蔵の纏う空気が和らいだ。
表情から見ても、かなり彼に信頼を寄せているのが椿でもわかるほどに。

以蔵の頭に手を乗せていた彼は、次に椿に目を向けた。



「――以蔵、彼女は?」



友人と言うにはまだ知り合って間もない。
どう紹介するべきか戸惑う以蔵に、椿は自ら名乗り出ることにした。



「椿と申します。先程、彼女には危ないところを助けてもらったんです。
 せっかくのところをお邪魔して……すみません」
「そう、以蔵が……」



含みのある男の呟きに椿は気が付かなかった。

柳川左門と名乗った男は、以蔵の保護者のようなものとも話す。
先程から以蔵が「先生」と言っていたのは彼のことだったのかと椿が理解していたところで、
彼は柔和な笑みを向けると、すぐにまた以蔵へと視線を移した。

その時に見た以蔵の表情を椿は忘れない。



「以蔵、少しいいですか?」





お題提供 h a z y様

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