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□逃げる君
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栄口は後悔していた。
朝、もっと身長がほしいと思ってちょっと牛乳を飲みすぎたことを。
グラウンドに早めに着いたから、練習が始まる前にトイレに行っておこうと思ったことを。

トイレから出てきた栄口の目の前で恐い顔して通せんぼをするみたいにして立ち塞がる阿部を見て。
今日って運勢悪いのか、なんてうっかり考えてしまうくらいには。後悔していた。
なんで今日の阿部はこんなに機嫌悪いんだろう。昨日なにかあったっけ?
いや、なにもなかった。なかったはずだ。

「キスがしたい。」
幻聴かな。栄口はとっさにそう思ってしまったのもしょうがないかもしれない。
阿部が突然発した言葉は栄口にとって全く予想していないことだった。


「目閉じて。」
なんて凄んだ顔で言うから。
「やだ。」
面喰らって、もう条件反射のように答えてしまったんだ。
言われた瞬間阿部が傷ついたような顔をして。ほんとに一瞬だったから見間違いかもしれないけど。
でもその表情に慌ててしまった。
「え、だって急に目瞑れって言われたらびっくりするし。」
そうちゃんと説明しても阿部は俯くように下を向いて黙りこくり。
栄口は阿部を傷つけたかもって慌てていたところに更に阿部が反応してくれないから焦りに焦って。
「こーゆうのってほらっ、心の準備とか、そう!その場の雰囲気っていうかそーゆうのあんじゃん!」
それでも阿部は何も言ってくれなくて不安になる。
「前もって言えばいいのか?」
顔を上げて阿部が反応してくれたことに安心して、
「うん。」
そして余計なことを言ったんだ。
あれあれ?なんか話の流れがおかしくないか。
そう気づいたときはもう後の祭りで。
「じゃあ今から目閉じてって言うからオッケーして。」
絶句、まさに絶句だった。
一体全体どうしたらそうなるのか。
返事をしない栄口を気にも留めずに阿部は話を進める。
「そしたら俺が栄口にキスすっから。」
いやいやいやいや、待て。
おかしいってそれは。おかしいだろ、阿部。さっきの話ちゃんと聞いてた?
確かに心の準備がとは言ったけど、そのあとの雰囲気はどうした。
こんなンちっとも恋人同士がキスする雰囲気じゃないし。
しかもこれじゃちっとも心の準備にならないよ。
そうは思うが栄口の心の声はその口から発せられることはなかった。
眼前に迫る阿部にすっかり圧倒されてしまっていた。
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