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□逃げる君
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「目、閉じて。」
さっきと同じせりふをまるで脅すかのような地を這う低い声でそう言われて、栄口は阿部の勢いに呑まれて途方にくれた。
途方にくれたが、その内ふつふつと栄口の中に怒りの感情が湧き上がった。こっちの意思はまるっきり無視なのか。
少しは話を聞いてくれてもいいじゃん。
阿部はいつもいつもそうだ。
そしてその怒りは変な方向で噴出した。それはもうほんとうにとんちんかんな方向で。
「阿部こそ目閉じてよ。」
「あ?」
「だからー阿部が目、閉じて。」
「なんで?」
「そしたら俺がキスするよ。いいじゃん、キスがしたいんならどっちからしたって。」
その栄口の言葉に阿部は眉間に皺を寄せ不機嫌そうな顔になる。
栄口も、問題はそこじゃなかったはずだよな?とは思ったけれど、引っ込みもつかなくてそのまま睨み合う。
朝練の始まる前のまだ薄暗い早朝の、トイレの前で。
ふたりして睨み合って、話している内容はキスのこと。
なんだってこんなことになってんの?
わからない。
わからないけどここで引くわけにはいかない。栄口は意地になっていた。
だから阿部の目が小さく笑んだことにも気づかなかった。
「いいぜ、ほら。」
ゆっくりと阿部が目を瞑るのを栄口はぽかんと見つめる。
いいと言われるとは思わなかったのだ。
でも、目の前には、キスを待って目を閉じてる阿部がいて。
これからキスするのか?
えぇえっ?
栄口の頭はパニックを起こした。

そして、栄口は逃げた。
それはそれはもう全力で。
阿部を放置して。


だってだって、キスなんてそんなんできないよっ!
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