連載

□一夜限りの逢瀬 壱
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春が好きだった。
暖かくて、優しい風が吹いていて、花も綺麗だ。
何より…、僕が産まれた日。



彼と過ごすこの日が大好きだった。
貴方とこの場所で、夜桜を見るひと時が大好きだったんだ。






全て過去の事。
彼だけが―――居ない。


















三月二十七日、宵の口

僕は、誰も立ち入らないような奥地に在る、ある小さな湖のほとりに来ていた。
散歩で見つけた、とっておきの秘密の場所があると連れて来られたのは、もう何年前の誕生日だったろうか。

それから毎年この日になると、連れて来て下さっていた。

「手を引いてくれて…」

此処の桜が一番綺麗だと。この景色を僕にあげると。

「肩を抱き寄せてくれて…」

夜桜を眺めながら、澄んだ湖を眺めながら、杯を交わしたりもした。

「優しく口付けて下さって…」

この景色に酔い痴れ、屋外にも関わらず体を重ねた時だって…

「ぼくのことが…すきだと…」



ただ…今年は彼が居ない。

例年の如く特別だったこの日も、あと数時間で終わろうとしている。
何事も無く、終わろうとしている。



ひとりで…、歳を重ねる。









「君だけが…、祝ってくれるのかい?」

風に乗って運ばれて来た花びらが頬を撫で、見上げると、満開に咲いた夜桜がそよそよと揺れていた。
風に揺らされ、静かに擦り立つ音。桜だけが唯一語り掛けてくれているかのよう。

毎年此処へ来ると、舞うそれを見て、一番に漏らしていた「綺麗だ」という言葉。
今年はどうやら出ないらしい。

とても残念だ。
昨年と変わらず、色を立たせ、こんなにも凛々しく艶やかに咲いている筈なのに。
何故だかそう思えない。



あの人の存在を失ったその日から、僕の眼は闇夜に霞んでいた。

何故僕は今日、此処へ来てしまったのだろうか。
こんなにも朽ちてしまった眼で映さなければ、綺麗な景色の思い出のまま残っていたというのに。



水辺に歩み寄り、膝を着いて水を掌に掬えば、透き通っている筈の淡水さえも、綺麗だと思う事が出来無い。

「本当に…」

何故僕は、こんなにも思い出が詰まった此の場所に来てしまったのだろう。
ただ辛くなるだけなのに。

途端、押し上げるような悲しみが溢れて来た。



それでも涙は出ないのだ。
そんなものとっくに枯れていた。



この日の分を取っておくべきだったか。泣く事が出来た方が幾分か良い。

流れるものがあった方が、濁った視界を洗い流してくれたのだろうか。綺麗だと純粋に思える景色へと、此処に居る間だけは心が癒される景色へと、変えてくれたのだろうか。

流れるものがあったならば、締め付ける痛い胸の苦しさを吐き出す事が出来たのだろうか。鋭い針で引っ掻かれたような苛む胸の痛みを、少しは和らげる事が出来たのだろうか。






幸せな思い出が詰まり過ぎていて、僕にはあまりにも重い場所だ。心が押し潰される感覚が芽生え、一層胸を痛く締め上げられた。

それなのに、この場を離れる勇気すら起こらないのだ。

だって僕は…

「……市丸…隊長…」

あんな棄てられ方をした。
だけどこの想いだけは、どうしても消せずに居る。



そして僕は、水辺で手を浸し、水面に浮かんだ桜の花びらを掬っていた。心も無いままに。

過日の事を想い、絶えず呻き上げる心の声に、苛まれている時の事…

















其れは、突然の事だった。












しゃがみ込んだまま、僕の体は固まった。

覚えのある霊圧が背後にあるのだ。



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