連載

□きみ、紫陽花 肆
1ページ/7ページ




翌朝起きると、昨晩イヅルを犯した部屋は綺麗に片付き、整然としとった。

床の間の前に寄せて置かれた盆の上には、銚子が二つの杯と共に向きまで揃えられている。
よく見れば洗い物までしたのか、酒がこびり付いた跡も無い。垂れた跡形も見当たらん朱塗りの盆は、彩られた蒔絵が艶やかに光る。
寝起きの双眸にはそれが妙に眩しい。

無理に体を開かされた此処から一刻も早く出て行きたかった事やろう。
憤りに胸を覆われ、失望した上官の言い付けなど最低限でええというのに。寧ろその方が予見通りというもの。

それは、譬えボクの何を見ても、どんな絶望を見せられても、敬うべき相手やからか。
「片付けといて」とは告げたものの、陵辱した相手に命令以上の世話をして帰るとは…

阿呆やとしか言いようが無い。

「なんやもう昼か…」

そんな事を考えながら窓辺へ近付いて風を通せば、見上げた空はもう随分と陽が高く昇っていた。
欠伸を洩らし、揺らいだ眼で詰所の方角へと視線を移す。

執務室で共に時間を過ごす事は彼にとって苦痛でしか無く、昨日の今日となると仕事を休むやろうかと思うてたが…、この分やと恐らく時間を守ってイヅルは既に業務に就いとるやろう。
直感的にそう思うた。

副隊長である事の責任感。
それが私情を制圧させ、顔を合わす事すら避けたい気持ちをも誤魔化しにかける。
否、それに臆してる己と向き合う事すら彼には恐怖。

「はよ行こ。イヅルに怒られてまう、…ゆうてな」

ふふっと小さく笑うと、着替える事にした。

日頃からサボる事の多い気紛れな上官に困り果てていたが、今日ばかりは来なければ…、と願っとるに違いあらへん。

さあ…ボクが顔出したらどないな顔する?












執務室に顔を出したのは、昼を間もなく迎える頃。

「おはよーさん」

「っ!…お…はようございます…」

突然現れた気配に驚いたのか、本棚で整理してた資料を彼は思わず数枚落とす。
早々ええ反応をしよる。

「…れ、霊圧を消してらしたのですね…」

振り向いたイヅルの顔が面白い程予想通りで、愉快そうに双眸を眇めては昨晩何度も見せあの笑みを、強く絡ませた。
途端に視線すら合わす事が出来んなったその貌は、気まずさが一層際立つ。

「ふぅん。いつ来るか思うて張り巡らしとったんやね」

「い…いえ…」

ゆっくりと近付いて足元の資料を拾ってやれば、覗き込んだ表情はいつにも増して疲れた風情があった。
眼も朱く、目許がやや腫れている。
前日の情事の余韻を残す悲痛さが漂い、小声で答えたイヅルの声音は聞き取りにくい程。
射抜くような視線を感じているのか、イヅルは居た堪れなさに目をひたと伏せてしまう。

瞬く間に室内は重たい空気に満たされ、押し潰されるような静けさが取り巻き始めた。

しかし、そんな居心地の悪さを感じてるのはイヅルだだひとり。
拾った一枚を抱き抱える束の上にトンっと重ね置くと、彼の耳元にそっと唇を寄せ…、そして猥雑な微笑を宿らせて下卑た質問を吹き込んだ。

「あれから帰ってひとりでしたん?」

「…っ!」

忘れたい夜を反芻させるような淫らな問い。
イヅルの身がぞくっと凍る。

「し…しません…」

「へえ…あのまま寝れるとは思えんやけどなァ。さよかさよか、してへんのやね」

「……」

半ば見透かしたような嗤いを含ませて再び下卑た事を言えば、イヅルは息を殺して憤った。

耳殻を擽らせる吐息が肌を掠めるだで悪夢の夜が甦るのか、きゅっと唇を噛むのが見える。
胸の中にまで刻まれた情事の跡は、イヅルをきつく縛っとるよう。

居た堪れなさに部屋を駆け出して逃げて行きよるか――将又、昨晩のように涙を滲ませるか――どっちや?
そんな揶揄の表情を向けて暫し待つ。
その噛み締めた唇は涙を堪えたもの。瞳の奥で湧き起こるものが呻きを上げとるのを知ってる。

猛然と蹂躙し尽くし、弄ばれた犬の屈服の瞬間をもう一度見たいと…。

だが、泳がせる視線を上げたイヅルの対応は、彼らしくないものやった。

「仕事中です…っ。そのような話はお止め下さい…。六番隊に提出した書類に不備があったそうです。届いてますので…本日中にお願いします」

少なくともボクが見定めてた彼とは違う。
これ以上嬲られるのは御免だとでも訴えるかのような捲し立て方に、眉が僅かに寄っていく。

気にいらん。
仕事の場で涙を見せるなど厭わしいのか。

繊細そうに見え、何処か気ィの強い子。

 
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ