とれじゃーぼっくす
□・志乃様より・
『誘惑をあげましょう』柊薫
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カタン、と。草木も寝静まり返った深夜の外から。いつもはしない音がするものだから。私はカーディガンを羽織ると中庭へと思わず飛び出した。
4月の、まだ夜が寒い日のことだった。
いつもであれば、決して特別なことがない限り、外には飛び出さないだろう。寧ろ何かあれば私は情報を得るのを待つ方だ。
だが、この夜に限り、何かが違ったのだ。
胸の奥が揺れて。気が付いたら体が音に吸い寄せられるように私は部屋を後にした。
外は思いの外、肌寒く、もう一枚羽織ってくればよかったと後悔する。いや、既に外へ出て来たこと自体後悔をしていた。
まあ出て来てしまったものは仕方がない。一応、音のした中庭へとに足を向けてみた。
冬の澄み切った空とはやはり4月の空気は違うが北空には北極星が空の中心に輝いていた。
そしてそんな星空の下に、ゆらゆらと燻る空気の影。
煙草の煙だ。
この煙草を吸う人物は一人しか知らない。もう香りだけで判別出来るようになってしまった自分に嫌になる。
「…柊さん…。」
燻る紫煙に近付けばその煙草を口に咥えた人物がゆっくりと視線を北の空から私へと下ろした。
何故かその銀色の眼差しがどこか切なくて、消え入るように儚げで。私の心臓はトン、と一つだけ跳ねた。
思わず伸ばしてしまいたくなる自分の腕を慌てて引っ込める。
柊さんはなんで私がここにいるのだ、と驚いたように目をいちど目を見開いたが、すぐにいつものポーカーフェイスに戻り、ふうっと煙草の煙を吐き切った。
そこには明らかに溜息が籠められていた。
「…何か言いたげね?」
「…当たり前でしょう。こんな夜中にこんなところで何をしていらっしゃるんですか、紫お嬢様?」
呆れと怒りの籠められた低い声が鼓膜から脳髄を揺らした。
私を見下ろす銀色の瞳が今にも私を切るような勢いで睨み付けている。
分かりにくいのよ、貴方の表現は。
「柊さんこそ、何をしていたの?天体観測?」
クスクスと笑う私の声を無視して柊さんは続ける。
「私のことはどうでもいい。貴女に問うているのです。」
私を睨む眉が一層顰められた。怒っている。と、同時に心配をしている、とても。
クスクス、分かりにくい人。言葉にしてやろうかしら。
「…私はここで待ち合わせをしているのよ。」
「…こんな時間に、です…か?」
「ええ、ここで。これから。」
「…どなた、と?」
柊さんがじっと反らすことなく私の姿を見つめる。そして私は貴方のフレームから動くことが出来なくなる。
でも私はわざと唇に弧を描き、手を後ろに組みながら構わず続けた。
「…誰でもいいじゃない?それにこの待ち合わせ、誘われたものだから空気読んで?」
「…!」
柊さんの目が無言で一気に見開く。
クスクス、と私の小さな笑い声だけが薄暗い中庭に響いて消えた。
煙草の灰が柊さんの指から足元へ落ちて完全に火は消えた。
「………。」
「…行くのか…?」
「え、」
「行くのか、と訊いている。」
先程の睨み付ける柊さんはもうそこにはおらず、切なくて、消え入るように儚い目をした貴方が目の前にいた。
さっき、北の空を見上げていたときと同じ眼差しだ。
私が貴方に腕を伸ばしてしまいたくなった、あの瞳。
もう一度私の胸がトン、と跳ねた。
「…ちゃんと言葉にさせてやろうと思ったのに。」
「…何のことでしょう?」
「…誰かさんが寂しいと言わないから私が動くしかないってことよ。手が掛かるわ、全く。」
「………。」
「…独りが寂しいなら、来れば?部屋に。」
「…それは俺を誘っているのですか?」
柊さんはゆっくりと執事服のタイに指を掛ける。
「…誘ってるんじゃないわ。貴方が私に誘われているんでしょう?」
くるりと背を向けて歩きだす私の後ろからゆっくり確かについてくる足音を聴いた。
北極星は静かに北の空から私たちを見ていた。
誘惑をあげましょう。
(銀色の眼をした寂しがり屋の狼さん。さあ、甘い甘いお菓子をたっぷりあげるわ。)
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