倉庫 GC-2
□忘却が救いと言うのなら
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ダリル・ヤンという少年がいた。
未だ十にもならない、幼い男児だった。
彼は人並み外れた感覚共有能力を持ち合わせており、研究者の格好の実験道具であった。
彼の父は将校だったが、実験にあたって息子を庇うようなことはなかった。
国益の為に差し出すというより、我が子に関心がないのだろうと専らの噂だった。
そんな少年を憐れと思いはするものの、ローワンが彼の為に何かをなすということはなかった。
彼にとってもまた、少年は実験の道具でしかなかった。
ローワンの少年への認識が変わったのは、辺りにブルーボネットの咲き始める3月の終わりの頃だった。
作業の合間の僅かな休憩時間、彼は日の光に当たろうと外に出た。
数日研究室に籠りきりだった体は太陽の存在をすっかり忘れ、久方振りに浴びる光に咄嗟に目を覆ったほどだ。
人体が光合成を行わないことは明白だったが、このときばかりは身体中に日光を取り入れたいと思った。
そうして植物のように空へと背を伸ばしながら、彼は施設の周りをふらふらと歩き始めた。
執拗に白で統一された建物の周りには、綺麗に整えられた芝生と季節の草花が植えられている。
この緑の維持管理に要する資金を研究開発に回せとぼやく同僚もいるが、彼はこの緑をそれなりに気に入っていた。
かといって立ち止まり花を愛でるほど雅趣に富んだ人間でもなかったが。
そんな緑を眺めながら歩を進めていると、どこからともなく人の笑い声が耳に届いた。
ついに誰かの頭がイカれたか。
悪趣味にもその醜態を一目拝もうと思い立った彼は、キョロキョロと辺りを見回し声のする場所を探した。
右へ左へ、上へ下へ。反響する声を探して辺りをさ迷った挙げ句、彼の足は非常階段の下でぴたりと足を止めた。
「ふふふ、くすぐったいよ」
その場で天を仰いでみれば、階段の中ほどに誰かが座り込んでいるのが見える。
「ダメだって。これは僕のだよ」
身を捩らせ誰かと喋っているようだが、他に人影はない。
これは本格的に頭がイカれてしまったらしい。
ローワンは溜め息を零し、イカれた同僚を引き摺り下ろすべく非常階段を上り始めた。
「おーい、大丈夫かー?しっかりしろー、傷は浅いぞー」
直後、転げるような轟音と共に上階の人物が立ち上がった。
「ご、ごめんなさい!もう時間ですか!?」
手摺から覗かせた顔は、予想に反して幼い。
まるで子供のような――
「あれ?君――」
そう、子供だ。
逆光で顔までは見えないが、この施設で子供といえば一人しかいない。
「ダリル……ヤン?」
「はい」
カン、カンと音を鳴らしながら駆け下りてくるのは、他でもないダリル・ヤンその人。
「どうしてこんな所に?それに、誰かと話していたようだが――」
もう一度非常階段を見上げてみるも、彼の他に人の姿はない。
その事実を本人に指摘すると、ダリルは尋常でない動揺を見せた。
「違うよ!誰もいないよ!独り言!独り言なの!」
懸命に否定をするものの、隠し事をしているのは明らかだった。
状況から察するに、無断で通信機器でも使っていたのだろう。
機密の多いこの施設では御法度だが、人恋しい年頃の子供相手にそれを強要するのは酷というものだ。
彼は一度くすりと笑うと、狼狽える子供の頭に手を乗せて言った。
「大丈夫、誰にも言わないよ。ただし、今回だけだぞ?」
「ほんとに!?」
すると子供は目を輝かせ、彼の裁量に跳び跳ねんばかりに喜んだ。
「ありがとう!」
その笑顔が眩しくて、彼は咄嗟に目を逸らした。
心のどこかに芽生えた罪悪感から逃げるように、曖昧に笑って天を仰いだ。