倉庫 GC-2
□悪女
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ヤン司令にいい女(ひと)がいるという話は、実のところGHQでは広く知られた噂だった。
軍の司令ともなれば、愛人の一人や二人、囲っていてもおかしくはないのだろう。
思春期の息子を抱えながらよくやるものだと、下卑た笑いが漏れ聞こえることも珍しくない。
そんな折のことだった。
「すみません」
「はい?」
廊下で声をかけられたローワンが振り返ると、背後に申し訳なさそうに彼を見上げる女がいた。
「何でしょう?」
「道をお尋ねしたいのですが……」
黒縁の眼鏡をかけた、綺麗な顔をした女だった。
服装から察するに、事務方の人間だろうか。
見掛けない顔にローワンは僅かに身構えた。
「どちらまで?」
「資料室なのですが……」
「何か調べ物でも?」
「司令から少々お使いを頼まれまして」
そこでローワンはピンときた。
「ああ、あなたが……」
「私が、何か?」
女性は首を捻る。
「……いいえ、なんでもありません。資料室でしたら、途中までご一緒しますよ」
「本当ですか!助かります」
取り繕うように首を振ったローワンに、女性は大層綺麗な笑みを浮かべた。
「失礼ですが、どちらの所属ですか?」
「ヤン少将の秘書で、エミリーといいます」
「ヤン司令の……」
ローワン予感は的中した。
この女性こそ、ヤン司令の愛人と噂される人物だ。
なるほど、とても綺麗な顔をした女性である。仮に手でも握られようものなら、世の男の大半は鼻の下を伸ばすであろう。
そして彼女は無防備に男性との距離を縮めてくる。
「その制服、アンチボディズの方ですよね?」
「そうですが、何か?」
「お名前、教えて頂けますか?」
上目遣いで物を問う様は、確かに蠱惑的でそそられるものがある。
だがその時、ローワンの心の内に凄まじい勢いで嫌悪の情が沸き上がっていた。
「どうして」
「え?」
「名前なんて、知ってどうするんです?」
顔にこそ出さないものの、放たれた声は酷く冷たい。
エミリーは堪らず怯み、少しばかり声量を落とした。
「あの、お礼を――」
「必要ありません」
「ですが」
縋る彼女を、ローワンはそっけなく切り捨てる。
その目に浮かぶ侮蔑の色に、エミリーも気付かないわけがなかった。
「エミリー女史」
「はい」
「資料室はこの先、突き当たりを右に行くと左側にあります」
「…………」
これ以上付き合っていられない。
そう暗に示し、ローワンは彼女に背を向けた。
「それでは、私はこれで」
「あの!」
それでも食い下がるエミリーに、ローワンは視線をくれることもなく返した。
「何か?」
「また、お会いできますか?」
絡み付くような猫撫で声に、彼の足がぴたりと止まる。
そして彼はおもむろに彼女へ向き直ると
「さようなら」
仮面を張り付けたような笑顔で、一言、そう返した。
「変な臭いがする」
部屋に戻ると、開口一番、すれ違ったダリルが吐き捨てた。
「臭い。どうにかしてよ」
鼻を摘まみ、犬でも追い払うように手を振って去っていく。
ローワンはその背に二、三謝罪の言葉を告げると、自身の襟に鼻を寄せ眉を顰めた。
「本当に、気持ちが悪い」
彼の嗅いだ襟からは、甘く香る女の匂いがした。