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□人の温もり
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深深と冷えた空気に、二人分の笑い声が木霊する。
やがてそれすら静寂に飲み込まれた頃、サキはぽつりと呟いた。
「それ、今も痛い?」
「?」
唐突な問いに、アードライは訝しげに眉を寄せる。
やがて彼女の視線を辿り、彼は己の左目について言われているのだと気が付いた。
自分でも忘れてしまうほど、しかと体に馴染んでいた傷痕。
感触の違うそこを指でなぞり、彼は懐かしそうに目を細めた。
「流石にもう痛みはない。こう寒いと疼きはするがな」
「でも、最初は痛かったでしょ?」
「ああ。泣きたくなるくらい痛かった」
この傷を受けたときは、それはそれはショックだったものだ。
痛みも勿論のことではあるが、裏切られたことが何より辛かった。例えそれが誤解であっても、あのときの彼にはそれが真実だった。
それも今は懐かしい思い出。今を形作る大事な一欠片だ。
「君も、最初は痛かっただろう?」
彼は己の傷痕から指を離すと、とん、と彼女の胸に手を当てた。
そこは彼女がカミツキと暴かれた日、残酷にも人々の前で刺し貫かれた場所。
心の臓を一突きにされ、彼女は一度殺された。
否、一度だけではない。今日に至るまで、彼女は幾度も死を経験している。
撃たれ、刺され、何度も残酷な死を味わってきた。
彼女はそれに対し、寂しげな笑みを浮かべて目を伏せた。
「不思議よね。どうせ死にもしないのに、ちゃんと痛みは感じるのって」
痛みは生命を守るための警報装置。不死身のカミツキには無用の長物であるはずのシステムだった。
それでも彼女は殺される度、相応の痛みを、苦しみを、その身に受けることとなる。
「どうせなら、痛みも感じなくなっちゃえばよかったのに」
呟かれたその言葉に、アードライはなんとも言えず悲痛な表情を浮かべた。
憐れんだのかと問われれば、彼は否と答えるだろう。
哀しみや苦しみなどではない。強いて言うなら悔しさだろうか。
「痛いのは嫌か?」
「当たり前じゃない。だって痛いのよ?」
「だが痛みでしか得られないものもある」
「?」
「自分がここにいるという実感だ」
呟き、アードライは己の左目を片手で覆い隠す。
「戦場ではしばしば夢と現実の区別がつかなくなることがある。目の前の敵は現実か。引き金を引く自分は現実か。そんなとき、敵の弾が頬を掠める。ほんの些細な怪我だ。そこから生じた微かな痛みに、人はこれが現実だと思い出す」
非現実的な光景の中に現実を見出だすために。
それはまさに自分が生きてそこに在る証。
「痛みを大切にしろ。それは命を守るためではなく、お前の現実を――人間性を守るためにある」
穏やかに言い聞かせる彼に、サキは顔を曇らせて目を伏せた。
「でも私、もう人間じゃないし」
人間をやめた化け物が人間性を守るなど、それこそ無意味なこと。
彼女は自嘲気味に笑い、指通りのよいアードライの髪を撫でた。
さらり、さらりと髪を梳き、彼女の指が滑り落ちる。
アードライは暫く彼女の好きなように髪を遊ばせていたが、やがて静かに彼女の頬に手を伸ばした。
「なあに?くすぐったい」
手の甲で頬を擦られ、サキは小さく笑いを零す。
彼はそれを見上げながら、不意に彼女の頬を抓った。
「ふぇっ?」
予想だにしなかった攻撃に、思わず間抜けな声が漏れる。
腑抜けたその面を下から眺め、アードライはくすくすと笑いを零した。
「どうだ、痛いか?」
冷えた肌にじんわりと痺れが広がり、やがてその箇所が熱を持つ。
サキは少しの間呆然と彼を見下ろしていたが、次第に彼に釣られるようにして笑い出した。
「何するのよ。痛いじゃない」
口先だけで文句を垂れ、目尻に涙を浮かべて肩を震わせる。
「あーあ。痛くて涙出てきちゃった」
未だ収まらない笑いに、サキは涙を拭って彼を見た。
「私、これでも女の子なんだからね」
アードライもその目を見返し、抓った彼女の頬を撫でた。
「ああ、知っている」
慈しむように。慰めるように。
「君はただの人間だ」
仄かな温もりを分け合うように、二人は白銀の世界の中でいつまでも笑い合った。