倉庫 汎用

□加えて無愛想な同行者
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また、一週間が過ぎた。
仕事も学校も休みだったこの日、サキは自宅から逃げ出すようにして街に出た。
一応は名の知れた芸能人であるため、気持ちばかりの変装をして表を歩く。
目深に被ったハンチングに、度の入っていない黒縁の眼鏡。チェックのマフラーで口許を隠せば、顔はほとんど判別出来ない。
道行く人の目を欺くには、この程度の変装で十分だ。
そう彼女は思っていたのだが、

「サキ?」

大通りから脇道に入ってすぐ、向かいから歩いてきた見覚えのある男は、サキを見てはっきりとそう言った。

「久し振りだな。元気にしていたか?急に連絡がつかなくなったから心配して――」

ずんずんと近付いてくるのは、淡く紫がかった白の髪を持つ、異国生まれの美青年。
その人物が誰であるかを思い出した瞬間、サキは踵を返して走り出した。

「なっ!?おい!」

まさか逃げられるとは思わなかったのだろう。
相手は唖然として動きを止め、次の瞬間には思い出したように彼女の後を追いかけた。
男と女の筋力差を差し引いても、相手の足は速い。
走り出して10秒とかからず、サキはあっさりと追い付かれて左の手首を掴まれた。

「なぜ逃げるんだ」
「…………」

彼女は振り返ることが出来ず、俯いたまま弱々しく手を引く。
しかしその程度で男の握力を振り払えるはずもなく、男はこれまでより強く腕を引き寄せ、体ごと彼女を振り返らせた。

「私だ、アードライだ。覚えていないか?」

強引な態度とは裏腹に、彼の声音は優しかった。
覗き込む視線は彼女を案じるが如く憂いに染まり、寄せられた眉が悲しげだ。
会っていきなり逃げられたことで、彼は傷付いたようだった。

「……済まない。無神経だったな」

何も答えないサキの様子に、アードライはついに掴んでいた手を離す。
そのまま彼も顔を伏せ、視線を逸らして黙り込んだ。

「…………」
「…………」

人の疎らに行き交う通りで、二人だけがその場に立ち尽くす。
重い沈黙に耐えきれず、先に言葉を発したのはサキの方だった。

「違う……あなたが悪いんじゃない」

ようやく聞こえた彼女の声に、アードライが面を上げる。
今日初めて合った視線に僅かに怯えながら、サキは震える声で続けた。

「ごめんなさい。一週間くらい前、母が勝手にあなたへメールを送ってしまって。本当はすぐにでも謝るべきだったのに、アドレスを書いた紙、破いてバラバラにされちゃって……」

破れたペーパーナプキンを繋ぎ合わせても、それらを完全に修復することは叶わなかった。
初期設定のまま変更もされていなかったであろう彼のアドレスは長く、記された数ヵ所の破片はついに発見出来なかった。
だがそんなものは言い訳だ。
仮に復元出来たとしても、彼女が謝罪のメールを送ることはなかっただろう。
何故なら彼女は怖かったのだ。
許されないことが、叱責されることが、酷く恐ろしかったのだ。
故に先程出会った際も、彼女は真っ先に逃げ出した。
それがどれ程相手を傷付けるか知らずに。

「本当に、ごめんなさい……」

俯き、彼女は消え入りそうな声で詫びた。
そして同時に安堵した。
これで彼は自分に失望し、友達になろうとは二度と考えないだろうと期待した。
けれども彼は気にも留めず、納得した表情でぽんと一つ手を叩いた。

「――ああ、あれは君じゃなく君の母親だったのか。道理で急に連絡がつかなくなるわけだ」

言われて初めて、彼は自分のメール相手がサキ本人ではなかったと気付いたらしい。
そんなことかとけらけら笑い、彼は彼女の頭を撫でた。

「気付かなかった私も私だ。君が気にすることはない」

親が子をあやすように、骨張った手がハンチングを掻き乱す。

「しかし、破り捨てるとは穏やかではないな。あのメールからはそんな野蛮な気配を感じなかったものだが……」
「私のお母さん、私が男の人と関わるのを凄く嫌がるの。アドレスを受け取っただけでも凄く怒られたんだもの。こうして会って話をしたなんて知られたら、暫く家から出してもらえなくなるかも」

サキにしても、母の怒りをわからないではなかった。
アイドルが異性と接触することで、ファンにどんな誤解を与えるか。それがどれだけ致命的なことか。
彼女自身もよく理解していた。

「だから私、やっぱりあなたの友達になんて……」

母の望むアイドルでいるためには、諦めるより他にない。
それが彼女の選択。
だが、

「本当に?」

アードライは頭を撫でる腕を止め、厳しい表情で彼女を見下ろした。

「本当に君はそれでいいのか?」

穏やかに、けれど厳格に、彼は彼女を問い詰める。

「破られたのなら何度でも書こう。辛くなったら話を聞こう。男が駄目だと言うのなら、相手は女だと偽ればいい。必要ならば私も嘘を吐こう。それでも君は、母に背いて私と友達になるのが怖いか?」

打てる策は幾らでもある。それでも臆病風を吹かせるのかと、彼は彼女に問い掛ける。

「君のバイトが特殊だろうと、どんなに母が怒ろうと、そんなことは関係ない。私が知りたいのは、君がどうしたいかということだけだ」

その凛とした声に、サキは弾かれたように顔を上げた。

「勝手なこと言わないでよ!何も知らないくせに!」

怒鳴り付けながら見上げた顔は、彼女の予想とは大きく異なり、温かで優しいものだった。

「そうだ。何も知らない。だから知りたいんだ、君のことを」

強情で、我が儘で、けれども何処か力強い。
そんな言葉に絆されて、サキは肩の力を抜き、がっくりと項垂れた。

「無茶苦茶よ、あなた……」

結局この男は、サキが何を言おうと変わらない。
とんでもない男と関わり合いになってしまったと後悔する反面、サキは心の内にあった靄が晴れていくのを感じた。

「でも、ありがとう。少し元気出た」
「それはよかった」

互いに苦笑し、詰めすぎていた距離を一歩空ける。
ふと腕時計に目を遣れば、短針は丁度12時に差し掛かるところだった。

「ときにサキ、お腹は空かないか?」

考えることは皆同じ。

「また奢ってくれるの?」
「いいや、友達なら割り勘だ」
「ケチ」

二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
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