倉庫 汎用
□蜘蛛の糸
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逸樹がしばらく目を閉じていると、左頬に何かが降ってきた。
「ん、なに……?」
当たった何かに手を触れると、それは乾いた土のようだった。
よほど強い風でも吹いたのか。探るように空を見上げると、何かが井戸の縁で揺らめいているのが見える。
「――ぃ、 て か」
微かに届く小さな音は、耳を澄ませば人の声に聞こえる。
「い ぉ!だ です 」
しかも男女複数の声だ。
助けが来た。逸樹はそう理解し、声を張り上げた。
「おーい!おーい!」
すると井戸の縁に揺れていた何かが引っ込み、入れ替わるように紐のような物が井戸の中に投げ込まれた。
「掴まれ!引き上げる!」
ようやく聞き取ることができたその声は、時真慎一郎のものだった。
「委員長!頑張ってください!」
「逸樹ちゃーん!」
「ファイトー!」
小夜の声も、求衛姉妹の声も聞こえる。
垂れ下がってきた紐はロープのようで、逸樹は躊躇うことなくそれを掴み、壁に足をかけた。
「登らなくていい!大人しく掴まってろ!」
即座に投げ込まれた怒声に、彼は慌てて壁から足を離す。
「よし、上げるぞ!」
声と共に、ロープはゆっくりと、だが着実に上へ上へと巻き上げられていく。
近付く縁には小夜と優花の不安げな顔が覗き、逸樹が二人に笑顔を見せると、小夜はほっと息を吐いて彼に手を伸ばした。
「掴まってください」
白く細い指先に、彼は汚れた右手を伸ばす。
小夜はそれをしっかりと掴むと、人間離れした腕力で彼を地上に引き上げた。
僅かな浮遊感と、直後に襲う衝撃。
投げ出された逸樹の体は、背中から地面に墜落した。
「逸樹ちゃん!!」
「大丈夫!?」
慌てて駆け寄る求衛姉妹に、彼はなんとか首を縦に振って応える。
「ありがとう。助かったよ」
痛みですぐに体を起こすことはできないが、とりあえずは助かった。
そのことに逸樹は素直に感謝する。
「もう、びっくりしたんだから!」
「逸樹ちゃんふらーっと横道に入って行くし」
「声かけようとしたら消えちゃうし」
「まさか井戸に落ちちゃうなんて」
「「ねー!」」
姉妹は落ちる一部始終を目撃していたらしい。
それが最大の幸運だった。
「お怪我はありませんか、委員長?」
「うん、大丈夫だよ。擦り傷くらいかな」
「気を付けなよ。まったく……」
「ごめん。ありがとう、助けてくれて」
小夜と優花も同じように見ていたのだろう。
井戸の底で抱いた疑念に心中で詫びながら、逸樹は素直に礼を述べた。
すると二人は顔を見合わせ、ゆるゆると首を振って見せた。
「お礼なら時真さんに言ってください。真っ先にロープを持って駆けつけてくださったんですよ。ね、時真さん―――あら?」
言いながら辺りを見回し、小夜は首を捻る。
先ほど逸樹を引き上げていたはずの慎一郎の姿が見当たらない。
「帰ってしまわれたんでしょうか?」
逸樹も辺りに目を凝らせば、木々の合間に去り行く慎一郎の背中が見てとれた。
振り返りこちらを窺う様子もない彼の背からは、既に逸樹への興味など消え失せたように見える。
或いは初めから、逸樹に興味などなかったのかもしれない。
気紛れで蜘蛛を生かした、あのカンダタのように。
『――ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路端を這っていくのが見えました』
ともすれば、カンダタはどちらであっただろうか。
引用:『蜘蛛の糸』芥川龍之介