倉庫 汎用

□蜘蛛の糸
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現世で罪を犯したものは地獄に落とされるのだと言う。
ならば自分はさぞ大悪人なのだろうなと、井戸の底で逸樹は考える。
見上げれば遥か彼方、初夏の青空が小さく覗く。
この地へ落下した彼は、もう一時間ほどこの空を見上げていた。

事のはじめは放課後のこと。
ほんの出来心で、彼は普段立ち入らない林へ足を向けた。
何か気を引くものがあったわけではない。本当に、気紛れな好奇心からだった。
その結果、彼はこの井戸に転落した。
落葉や朽木に埋もれて姿を隠していたその井戸は、水も渇れ果て釣瓶も失われていた。
試しに壁を登ってみたが、三歩と進まず足を滑らせた。
助けを呼ぼうにも、この地で携帯が使えるはずもなく。大声を出しても誰かが来る希望は薄い。
手元には学生鞄と水筒。
脱出は絶望的だった。
そんな中で、逸樹はある物語を思い出していた。

『ある日のことでございます』

それは今の彼を嘲笑うような、ある罪人の物語。

『お釈迦様は蓮池の淵を、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました――』

地獄の底で為す術なく血の池に揺蕩(たゆた)う一人の男、カンダタ。
そこに気紛れで救いの手を差し伸べ、けれど決して引き上げてはくれなかった釈迦。
救いのない物語の結末は、彼の気分を一層憂鬱にさせた。

「僕にも蜘蛛の糸くらい、垂らしてくれてもいいのに……」

立っているだけでも体力は消耗する。
逸樹は枯葉の積もる井戸の底に腰を下ろすと、冷たい石壁に背を預けて目を閉じた。
日の光がほとんど届かないせいか、空気は驚くほどに冷たい。夜になればもっと冷えるだろう。
助けが来るとすれば明日。登校しない彼を訝しみ、誰かが探しに出るだろう。
幸い水筒に飲み物は残っている。一日程度なら食べずとももつはずだ。
そう、一日程度なら。

「誰も気付かなかったりして」

いつ誰が死んでもおかしくないこの土地で、消えた逸樹を誰かが探してくれるだろうか。
勝手に出歩いて死んだと判断されてしまったら、探しに来る人間などいない。
小夜は訝しみ、彼の身を案じてくれるかもしれない。だが彼女は存外薄情だ。いつかいなくなったことすら忘れてしまうだろう。

「なんだ。案外ピンチじゃないか」

乾いた笑いを零し、逸樹はおもむろに体を倒した。
腐りかけの葉の匂いが、微かに鼻の奥を刺激した。
 
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