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□君に寄り添う 先生編
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7月も半ばになった頃、北関東のこの地には台風が迫っていた。
未だ海水温の低いこの月にしては珍しく、その勢力は非常に強い。
先に通過した九州・四国では死者が出ることこそなかったが、雨による浸水や土砂災害が発生している。
この辺りは山なだけに、避難の準備を怠るわけにはいかない。
最悪の場合は山口と共に身一つで山を下る覚悟で、僕は一人テレビの台風情報を注視していた。
進路はやや西寄り。予報円の中心を通れば直撃は避けられるが、被害の大きいとされる台風右側になるだろう。
最接近は今日の朝から昼前にかけて。診療所は閉めざるを得ない。峰には今日中に連絡を入れるとして、問題は山口だ。
いっそ今日中に避難所へ移動させるか。
そんなことを悩んでいる早朝、突如受付の電話が鳴り響いた。
時間外のため、電話はすぐに留守電へと切り替わる。
そこから流れ出たのは、悲鳴に近い女の叫び声だった。

『先生!先生!大変なの、お父さんが!お父さんが!』

声は幼い。未だ子供だろう。
救急車を呼ばずにここに電話を掛けてきたということは、通院している誰かに違いない。
咄嗟に受話器を取り、電話に応じる。
聞けば急病人は三宅という酒店の旦那で、その住所であれば救急車を呼ぶより自分が向かった方が早い。
鞄を手に取り、僕は慌てて車に飛び乗って山を下った。
外は風が強まり、間近に台風が迫っていることがわかる。
車を中程まで走らせたところで、山口を置いてきたことを思い出した。
引き返すか。悩んだ末に、そのまま山を下った。
ここで引き返して患者を見捨てたら、きっと山口は僕を許さない。
だからこのまま突き進む。救急車の到着まで付き添い、それから帰っても避難には間に合うはずだ。
自分に言い聞かせながら、法定速度を超えたスピードで車を走らせた。

結果から言えば、三宅氏の命に別状はなかった。
食物によるアレルギー反応で一時は危険な状態だったが、応急処置の甲斐あって救急車が到着する頃には容態も落ち着いた。
あとは大きな病院に運んで様子を見るだけ。そう安堵した矢先、三宅酒店にまたしても急患の知らせが飛び込んできた。

「先生!稲田の爺さんが屋根から落ちた!すぐに来てくれ!」
「屋根!?なんでこんな日に屋根に上るんですか!」

勘弁してくれと思いながらも、すぐに新たな急患のもとへ走り出す。
そうこうしている間に時は過ぎ、気付けば時刻は午前9時。時計を見た僕は愕然とした。

「稲田さん、僕もう診療所に帰りますから、何かあったら避難所に来てください。今日はそちらで診察します」

外はもう暴風雨。避難するチャンスは既に逃している。
靴の踵を踏んだまま、車のキーを手に走り出すと、稲田氏の奥さんが慌てて俺の腕を掴んだ。

「先生、今出たら駄目よ。さっき防災無線で土砂崩れがあるかもしれないって。先生ん家は山ん中でしょう?崩れるかもしれない」
「なっ!?」

防災無線。全く気付かなかった。

「山から焦げ臭い匂いがする。こりゃ崩れるぞ」
「小石が降ってきとる。もう崩れたところがあるかもしれんぞ」
「先生、先生んとこ避難指示出たぞ!」

次々と飛び込んでくる知らせに、頭が真っ白になる。
ほとんど本能的に携帯を開き、診療所に電話を掛ける。
1コール、2コール、呼び出し音は鳴るものの、山口がほいほいと電話に出るはずもない。
留守電に切り替わると同時に、僕は通話口に向かって叫んだ。

「もしもし!?山口さん!山口さん!」

どうか山口がこの声を聞いてくれるよう願い、逃げろと必死で叫び続ける。
それもついにはブツリと切れ、携帯はあえなく圏外となった。
あとは自分が迎えに行くまで、無事であることを祈るしかない。
鞄を手に取り、今度こそ車に飛び乗る。エンジンを掛け、アクセルを踏み込む。
その直後だった。

「先生!山が!!」

誰かの叫び声とほぼ同時に、地震かと思うほどの揺れが襲った。
地を這うような低い音。
紛れもない、山の崩れる音だった。

「……山口!」

何処が崩れたのかはわからない。
どれ程の範囲に被害が出たのかもわからない。
ただひたすらに山口の無事を祈りながら、泥水の吹き出す山道を猛スピードで駆け抜けた。

車を飛ばしている間、数ヵ月前に見舞いに来た二人のことを思い出す。
影山と日向。二人は十年近くの歳月が過ぎても尚、暇を見付けては山口の見舞いに来てくれた。
いつもは彼の様子を尋ねて、貧相なボキャブラリーで土産話を語っていく。そんな二人も、この間は様子が違っていた。
二人にも焦りがあったのかもしれない。
或いは、僕が諦めかけていたことを峰から聞いていたのだろう。
あの日、影山は無理矢理にでも山口に思い出させようとしていた。
忘れてしまった僕という存在を、懸命に引っ張り出そうとしていた。
あれは間違いなく僕のためだった。僕のせいだった。
僕のために悪役を担おうとした彼の思いに、僕は応える必要がある。
だから、

「無事でいてよ、山口!」

ハンドルを握り締め、車は悪路をひた走る。


僕が山口を見付けたのは、診療所を目前にした道路の真ん中だった。
道には土砂が広がり、片側は完全に埋まっていた。
山口はその土砂に埋まりこそしなかったものの、全身傷だらけの状態で仰向けに道路に転がっていた。
頭を打ったのだろう。頭部からは出血も確認出来た。

「山口!山口!」

駆け寄り、脈を確かめる。
意識はないが、息はある。
携帯を開けば、辛うじて電波が入った。
すぐに救急車を要請し、自分は可能な限りの応急処置を施した。
擦り傷、切り傷、打撲傷。数は多いが、一つ一つは大した傷ではない。
車に積んでいた救急箱を引っ張り出し、全ての傷を手当てし終えた頃にようやく救急車が到着。
その後は同乗して病院まで付き添い、精密検査を受けさせた。
結果に異常はなく、山口の身柄は再び診療所へと戻された。
診療所は幸いにして土砂崩れの被害をほとんど受けていなかった。
僕が電話などせず診療所に留まらせておけば、山口は怪我をしなかったわけだ。
結果論だと言われればそれまでだが、後悔しないはずはない。
昏々と眠る山口の寝顔を見守りながら、僕は後悔に浸り、彼の目覚めを待っていた。
その日、山口が目を覚ますことはなかった。
翌朝、台風被害の片付けのために、看護師の峰が早朝から出勤してくれた。
彼女と共にカルテの整理をしていると、診療所始まって以来初めてナースコールが鳴り響いた。
こんな小さな診療所で、ナースコールが設置されている部屋はただ一つ。
僕は持っていたカルテをそのまま抱え、一目散に2階へと駈け上がった。

「どうしました、山口さん!」

ノックも忘れてドアを開けると、ベッドに横たわる山口がこちらを見た。

「……ツッ、キー?」

その第一声に、僕は耳を疑った。

「ツッキーだよね……先生?」

山口がツッキーと呼んだ。
僕を見て、ツッキーと呼んだ。
その衝撃的な事実に、抱えていたカルテを床へと落とした。

「僕が……月島蛍がわかるの?」

混乱する頭で、よろよろと山口のベッドに歩み寄る。

「先生?」
「山口、もう一度僕のことを呼んで」
「……ツッキー?」
「ッ!!」

聞き間違いではない。
熱に浮かされているわけでも、夢を見ているわけでもない。
彼ははっきりと僕を見て、僕を月島蛍と認識した。
それを理解した瞬間、僕は彼が怪我人だということもすっかり忘れ、力いっぱい彼の体を抱き締めた。

「本当に、本当に僕が誰だかわかってるの!?」
「うん。わかってる。ツッキー。ツッキーだ」
「そうだよ。やっと、やっと気付いたんだ、この馬鹿ッ!」
「痛い、痛いよツッキー」

ベッドから半端な姿勢で起こしたせいか、はたまた僕の力が強過ぎたせいか、山口はぎゃあぎゃあと悲鳴を上げる。
直後、僕の頭に固いものが降り下ろされ、あえなく僕は手を離した。
振り返ると、そこにはカルテを手にした峰が、冷ややかな目をして僕を見下ろしていた。

「月島先生、通報しますよ」

こういうとき、彼女は学生時代の僕より辛辣だ。
彼女にカルテの角で叩かれた痛みと、山口に自分を思い出してもらえたことへの歓喜と、その他諸々綯い交ぜになった頭はもうぐちゃぐちゃで、僕は情けないことに涙目になりながら、山口の横たわるベッドに凭れ掛かった。
まるで子供をあやすかのように山口に頭を撫でられながら、僕達は久し振りに沢山話をした。
僕が医者になったこと。
それまでずっと山口に会いにも行けなかったこと。
また一緒にいるために、十年近くの歳月を要したこと。
話し終えた頃には、山口はとても悲しそうな顔をして僕を見上げていた。

「ごめんツッキー。どうしよう。俺、返してあげられるものなんかないのに……」

構わない。僕はそう言って頭を振った。

「いいよ。責任とってもらうから」
「責任?」
「そう、責任」

はじめから、僕の願いは決まっている。
そのために費やした十余年。
僕は山口の体を起こし、その左手を持ち上げて言った。

「これからは山口が、ずっと僕の側にいてよ」

これは一世一代の大勝負。
そして人生最大の我儘。

「退院なんてさせてあげない。結婚だって子供だって諦めてもらうよ。お前は僕の人生の選択肢を持っていったんだから、お前の選択肢は僕が貰う」

影山より頑なに、日向より真っ直ぐに、西谷さんより堂々と。
忠誠を誓う騎士のように、僕は彼の手の甲に唇を落とした。

「一緒に居よう、山口」

一度ならず二度までも失いかけた僕の半身。
その瞳に問い掛ければ、彼はへにゃりと笑い返した。

「いいよ。俺の全部、ツッキーにあげる」

十年分の僕の願いは、今この瞬間に果たされた。

「幸せにしてね、ツッキー」

彼は僕の手をとって、お返しとばかりに手の甲へと口付けた。
僕はその体ごと、彼を強く抱き締めた。
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