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□君に寄り添う 先生編
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高校3年の春。山口が記憶を失った。
寝惚けて階段から転落し、強く頭を打ったのが原因だと聞いた。
打ち所が悪かったらしく、一週間も昏睡状態が続いて、目覚めたときにはもう、僕のことを覚えていなかった。
「誰だ」とすら訊かれなかった。
山口は僕を見ることすらしなかった。
ただはらはらと、誰だかわからなくなってしまったチームメイト達の前で泣いていた。
「ごめんなさい」そう言って泣いていた。
だから僕は医者になった。
壊れてしまった山口を独りにしない為に。
彼の側にいる為の、もっともらしい理由をつけるように。
医者になるのは楽ではなかった。
医学部に進学してからは死に物狂いで、研修医になってからは馬車馬のように働かされた。
一緒にいる為に医者の道を選んだのに、そのせいで何年も山口に会えない日々が続いた。
結局、診療所を開いたのは30も間近になってから。
医者仲間からは早過ぎると心配されたが、むしろ遅過ぎたくらいだ。
それからすぐに、山口を入院させる準備を進めた。
山口のご両親には、一生面倒を見ると約束した。だから僕に預けてほしいと頼み込んだ。
その頃山口の家は少しぎすぎすした雰囲気をしていて、「うちに居ても忠が苦しむだけだから」と悲しそうな目をして同意してくれた。
彼等も限界だったのだろう。
愛すべき我が子に忘れられた悲しみからか、ご両親は随分と老けたようだった。

数年振りに会う山口は、転落事故後と比べるとかなり快方に向かっているように見えた。
最初こそ自分が誰かも理解していない様子だったが、今は高校時代までの記憶を少しずつ思い出している。
家族のことも、友達のことも、顔を見れば名前を口に出すことが出来るようになっていた。
ただ、どうしても思い出せないことがあるのだという。
それは他でもない、僕に関する記憶。
山口は何故だか僕のことだけ、顔も名前も思い出せないでいた。
名前を聞いても次の瞬間には忘れ、僕のことも写真の中の月島蛍と同一人物だとは気付いていなかった。
思い出させようとすれば、頭が痛いと悶え転げ回る始末。
神様のなんと残酷なことか。
僕は僕の存在を気付いてもらうことも出来ず、彼を診療所へと引き取った。


僕の診療所にスタッフは一人。
近隣に住む若い女性の看護師がそれだ。
名前は峰。20代後半の既婚者だ。
彼女は僕が連れて来た入院患者山口を、あまり歓迎してくれなかった。
曰く、「ろくなことにならないから」だそうだ。
親しい相手を看護することに、彼女は否定的だ。
患者とは一線を画さなければ辛い思いをするのだと、経験に基づいた説教をしてくれたこともある。
それでも山口を手放したくないのだと告げると、彼女は諦めたように頷いた。

「あの人は患者ではなく先生の家族だということにします。面倒は自分で見てくださいね」

それが妥協点だったのだろう。
こうして僕は彼女の許しを得て、山口を入院させることに成功した。


入院して最初の頃は、山口が僕を思い出しやすいよう、目につく場所に診療所の備品を置いた。
毎日目に入るはずの「月島診療所」の文字。しかし山口はそれに気付く様子もなく、僕のネームプレートすら一瞥もしなかった。
呼ぶときは決まって「先生」。
峰の名前は覚えても、僕の名前は一度だって呼んではくれなかった。
無理に思い出させようとすれば頭痛に苦しむものだから、こちらから働きかけることも出来ない。
ならばいっそ、彼の幼馴染みの「ツッキー」ではなく、主治医の「先生」として隣に居よう。そう切り替えることにしたのはいつからだっただろう。
山口は先生である僕に対して、全幅の信頼を置いていた。
何かをするよう提案すると、それが義務であるかのようにすんなりと受け入れた。
主治医と患者という距離では済まされないほどプライベートを共にしても、彼は疑問すら抱かなかった。
そんな日々が一年も過ぎたものだから、なんだかもうこのままでもいいような気がしてしまったのだ。
山口が側で笑っているなら、それで十分なのだと思い込むようになった。
これに危機感を抱いたのは、意外にも看護師の峰だった。
彼女は僕に気付かれぬよう、僕と山口共通の知り合いに連絡を取り、この状況を打破するよう依頼した。
僕の家族、それに烏野高校時代の知り合いを当たり、どうにかしてくれと訴えて回ったらしい。
それに最初に応えてくれたのは、かつて烏野高校バレー部で主将を務めた澤村さんだった。
彼は何かのきっかけになればと、バレー部の合宿風景が記録されたビデオテープを山口宛に送ってくれた。
そのビデオは診療所の待合室で再生され、山口と峰、それに通院患者の林田という老婆に視聴されることとなった。
それ自体は問題ではなかった。
見られて恥ずかしいものでもなく、むしろ懐かしく微笑ましいものだった。
そこに爆弾を落としたのは、意外にも林田婆だった。

「これ忠ちゃん?隣ん子は美人さんねぇ。先生のごたぁ」

林田婆はあろうことか、テレビに映る過去の僕を指差してそう言った。
おそらく彼女は気付いている。気付いたうえで言ったのだ。
慌てて僕は間に入り、速やかに林田婆を診察室へと連れ込んだ。
そんな思惑も林田婆はとっくに気付いていて、

「先生がぴしゃっとせな、忠ちゃんもいつまででん忘れとるよ。今ん状況に満足しとったら、頑張りよる忠ちゃんがかわいそか」

山口が頑張っているのだからお前が諦めるな、という趣旨のことを方言で捲し立てられた。
現状で満足した僕を、周りは決して許さないようだった。
それから数十分後、林田婆が帰った後も、待合室にはまだ山口の姿があった。
彼は依然としてテレビの前にかじりつき、何度も何度も僕の映るシーンを再生し続けていた。

「ごめんね、ツッキー。忘れちゃって、ごめん」

呟かれた言葉に、僕はかける言葉を失った。
本当に謝るべきなのは、先に諦めた僕の方だった。
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