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□不器用な人
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火星の思い出を聞かせてよ。伊奈帆さんがそんなことを言い出したのは、夕陽が赤く水平線を染め上げる夕暮れのことだった。
人に話せるような楽しい思い出なんて、アセイラム姫と過ごした僅かな時間くらいのもの。それもほとんどが姫の口から伊奈帆さんへ語られた後で、結局僕には彼に話せるようなネタがなかった。そのことを正直に告げると、彼はいつもと変わらぬ無感動な顔で「じゃあ辛かった思い出を聞かせてよ」と言ってのけた。本当に、この人は残酷なまでに無邪気な人だ。僕は僅かに躊躇ったけれど、もう過去のことだからと割り切って、彼に話す覚悟を決めた。僕が嫌でも思い出す、あの火星騎士の思い出を。


あれはまだ父が死んですぐの頃だ。物資の乏しい火星の食糧事情から、働かざる者食うべからずの精神が生きる揚陸城。そこで僕は、城の主たるクルーテオ伯爵の召使いのような仕事をしていた。働かないよりはマシ、くらいの役立たずだったことは自覚しているけれど、幸いにもクルーテオ卿は僕を追い出すことなく城に置いてくれた。おそらくは皇帝の命令だったのだろうけれど、人並みの生活をさせてくれたのは彼なりの気遣いだったのだろうと思う。その頃はまだ、彼にとって僕は親を失った憐れな子供に過ぎなかった。
ある夜のことだ。クルーテオ卿に紅茶を届けるよう言い遣った僕は、単身彼の執務室へと足を運んだ。扉を開けると、彼はソファに腰掛けて足を組み、難しい顔で端末に指を滑らせている最中だった。僕は彼の邪魔にならないよう、テーブルの上に静かにティーカップを置いた。途中カチャリと食器が音を鳴らしたが、彼は何も言わなかった。

「後ほどまたお邪魔します。ごゆっくり、クルーテオ卿」

一礼し、盆を小脇に抱えて執務室を後にした。扉を閉めて、廊下に向き直る、その直後だった。

「おい、地球人。ゴミ掃除が終わってねぇぞ」

突如数人の男達に取り囲まれ、空いている部屋に連れ込まれた。そこは普段から使われていない、物置にすらならない空き部屋。ゴミはおろか、家具の一つも有りはしない。そんな場所を掃除しろとは、彼等は何を言っているのだろう。わけもわからず、僕は困惑した表情で彼等の顔を見上げた。

「ゴミなんて何処にも……」

すると彼等は凶悪な笑みを浮かべ、僕の腹に勢いよく拳を叩き込んだ。予想だにしなかった衝撃に、一瞬呼吸が止まった。意識して息を吐くことが出来なくなり、堪らずその場に倒れ込む。彼等はそんな僕の体を、今度は嬉々として蹴り飛ばし始めた。

「こんなにでかいゴミがあんじゃねーかよ!ほら!」

腹を、肩を、内股を、脛を。決して人目に触れる場所は狙わず、服に隠される場所を何度も執拗に蹴り飛ばす。彼等が頻りに繰り返すのは「地球人の分際で」という旨の汚い言葉。僕が地球の生まれであるという事実は、それだけで彼等の暴力を正当化し得るものだった。10分程度で暴行は止んだが、30分は動くことも出来なかった。部屋から出たのは1時間近く後のことで、クルーテオ卿の執務室へティーカップを片付けに向かったのは更に後。既にクルーテオ卿は紅茶を飲み干しており、遅くに顔を出した僕に訝しげな目を向けた。

「随分と遅かったな。外で何かあったのか?」
「いいえ、何も。遅くなり申し訳ありません」

彼に泣き付いてもどうにかなるとは思えなかった。彼は地球人が嫌いだ。僕よりむしろ、暴行した彼等を支持するかもしれない。そう思うと何も言えなかった。取り繕うように無理矢理笑い、空になったカップを下げる。それだけの動作で身体中が悲鳴をあげ、僕は出そうになる呻き声を必死で噛み殺した。腰を曲げたせいで、蹴られた腹に激痛が走った。呼吸は引き攣り、顔には脂汗が浮かんだ。思っていたよりずっとボロボロだった体は、痛みを隠すことの出来る状態ですらなかった。

「先程から腹ばかり気にしているようだが?」
「い、いいえ!何でもありません!」
「顔が赤いな。体調でも悪いのか」
「大丈夫です!こんなに元気で――」

懸命に取り繕うも、クルーテオ卿は僕の言葉など端から聞いていなかった。彼は有無を言わさず僕の上着を胸まで捲り上げ、そこにくっきりと浮かぶ無数の痣を見た。一つ一つを目に焼き付け、彼は僕に尋ねた。

「……これは何だ」
「………転びました」
「そんな言い訳が通じると?」
「……………」

通じるはずはない。だが言ったところでどうなるわけでもない。黙っていれば、たかが地球人の怪我くらいすぐに忘れてくれるに違いない。むしろ忘れてほしいと願いながら、僕は何も言わず顔を伏せた。

「スレイン」
「…………」

黙っていれば諦めてくれる。クルーテオ卿は僕に何も期待していないから。その考えは決して間違いなどではなく、彼は心底呆れたように溜め息を吐きながら、それ以上の追求を諦めた。

「もう良い。さっさと下がれ」
「……はい」

野良犬を追い払うかのように、彼はひらひらと手を振って退室を促す。僕は大人しくそれに従い、痛む体を引き摺りながら、紅茶のカップを片付けて自室に帰った。


翌日、目が覚めると昼だった。言うまでもなく大遅刻。僕は慌てて部屋を飛び出し、クルーテオ卿のもとへ向かった。彼の姿は艦橋にあり、モニター越しに他の火星騎士と何かを話している最中だった。邪魔にならないよう廊下に待機し、耳だけは話に耳を傾ける。黙って話を聞いていると、覚えのある数人の騎士の名前が話題に上った。他でもない、昨日僕を蹴りつけた騎士達の名だった。クルーテオ卿は火星騎士に対し、それら数人の騎士を揚陸城から降ろしたと語った。彼は昨日の僕の痣を見て、すぐにその真相を調査していたのだ。驚いた。彼が僕の為に火星人を処罰した、その事実に驚嘆した。そして同時に嬉しくもあった。彼は僕を守ってくれる人なのだと安堵した。

けれど、現実はそうではなかった。

この日を境に、今度はクルーテオ卿が僕に暴力を振るうようになった。差別的な言葉を吐き、ステッキで顔面すら殴り飛ばされた。前々から冷淡な人ではあったが、彼はこれほど暴力的な人間ではなかったはずだ。何より、周囲に見せ付けるように人を殴るような性格ではなかった。何が彼を変えてしまったのか。原因は一つしか考えられなかった。きっと彼は気付いてしまったのだ。僕が彼の忌み嫌う地球人で、迫害すべき存在で、彼自身の手で罰を与えなければならない穀潰しなのだと。これまで子供だからと許されてきた僕の存在は、あの一件をきっかけにモラトリアムを脱したのだ。
それからは、クルーテオ卿が僕を殴り付ける姿も揚陸城の日常になった。アセイラム姫の前でこそそれが行われることはなかったけれど、彼は自身の部下に見せ付けるようにして、ことあるごとに僕を殴打し罵倒した。それは彼がザーツバルム卿の手で落命するまで、決して終わることはなかった。

「ね、面白くもない話でしょう?」

話終わって、伊奈帆さんを見る。誤魔化すように笑ってみたが、彼はにこりともしてくれなかった。やはり不快だっただろうか。申し訳なくなって下を向くと、不意に彼が口を開いた。

「その人は、とても不器用だったのかもしれないね」

言われている意味がわからず、顔を上げて彼を見る。彼はやはり平素と変わらぬ無感動な目をしながら、日の沈む水平線に目を向けていた。

「君のことで騎士を複数人追放したのなら、残された他の騎士は君のことを相当恨んだだろう。君がそのクルーテオ卿って人に取り入ったんじゃないかって、たぶん皆疑ったんじゃない?」

確かにその可能性は十二分にあった。直接そのことを誰かに言われたことはなかったが、幾人かがそんな目をして僕を見ていた記憶がある。

「だからわざと皆の前で虐げて見せたんじゃないかな。自分の知らないところで、君が誰かの暴力に晒されないように。うっかり殺されてしまわないようにね」

でも、その人も相当君を痛め付けたのなら、あまり変わらなかったのかも。そう言って、伊奈帆さんはゆっくりと腰を上げた。僕はまた顔を伏せ、波打つ海面に視線を移した。波の音に混じって、微かに乾いた音が聞こえた。伊奈帆さんが服を叩いて砂埃を払った音だろう。

「話してくれてありがとう。そろそろ中に入ろうか。風が冷たくなってきた」

太陽はついに水平線の向こうへ姿を消し、辺りは徐々に濃紺へと色を変えていく。暗く、冷たく、静かな夜がやって来る。

「……スレイン」

伊奈帆さんに名前を呼ばれ、僕はまた彼を見た。

「どうして泣いてるの」

僕は唇を戦慄かせ、笑いながら涙を流した。

「あなたは本当に酷い人だ」

あの愚直な火星騎士にもう一度会って話がしたいなんて、彼がいなければ考えることすらなかったのに。
 

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