倉庫 AZ

□人間になろう
1ページ/2ページ

何処かの預言者が生まれてから2000年と少し。いつしか世界は貧困の時代に放り込まれていた。
世界経済が崩壊し、電気という文明の利器が失われ、人口は最盛期の1/3以下にまで減った。
人々は食糧を奪い合い、絶えず起きていた争いはその規模を爆発的に広げた。
暴動で国家が成り立たなくなった国もあれば、国民がこぞって逃げ出した国もあった。
そうしていつの間にか、人間は食物連鎖の頂点から転落していった。
そんな混沌の時代、滅び行くものがあれば、一方で栄え行くものもある。
人間の没落により、入れ替わるように台頭する種族も現れる。
僕達のこの世界で、その栄えある存在に選び出されたものは、吸血鬼と呼ばれる一種のモンスターだった。
吸血鬼の台頭により、世界は大きく変わった。
吸血鬼は純粋に強く、電気も食糧も必要としない。彼等に必要なのは血液と闇。ただそれだけだった。
地上の覇者に伸し上がったそれらは、やがて暇潰しに人間の真似事をするようになった。
貨幣を使って取引してみたり、家を建てて家庭を作ってみたり。子供のままごとのようなそれを、逞しくも人間は自らのために利用することにした。
人間は人形を演じた。いつか捨てられると知りながら、今日の食糧を得るために吸血鬼の玩具に成り下がった。
吸血鬼を領主として定め、隷属する人間も少なくなかった。
吸血鬼達は大層楽しそうに人形遊びを続け、飽きれば根こそぎ血を吸って殺した。
或いは完全に餌として、血を吸うためだけに人間を飼う吸血鬼もあった。
それでも人間は、生きるために人たる尊厳を捨てた。
そして僕も、その一人。
スレイン・トロイヤードは、吸血鬼に飼われている餌だった。

僕の主は幼い外見をしていた。僕より少し若く見え、けれども歳はずっと上の吸血鬼だった。
彼は始め、僕に何の役割も求めなかった。住まいと食糧を与え、ただ様子を眺めているだけだった。
始めはその行動に何の疑問も抱いていなかったが、次第に僕は怖くなった。何も求められない不自然さが、堪らなく恐ろしかった。
だから彼が初めて僕の血を吸ったとき、僕はとても安堵した。
明確な役割を与えられたことに、初めて存在意義を感じられた。
一度血を吸い始めると、彼は僕に餌としての役割だけを求めるようになった。
彼との間に会話はなく、彼との間に情はない。血液を捧げ、見返りに水と食糧を貰う。それだけの間柄。
寂しいと思ったことはない。吸血鬼は嫌いだ。交わす言葉など碌に持ち合わせていない。
けれども時折、ほんの僅かだけれど、彼と同じテーブルで御飯を食べてみたいと思うことがある。
それはきっと、腹が満たされた際に抱いた気の迷いのようなものだから、僕が彼と食卓を共にすることなど永遠に有り得ないのだ。

その日も、僕の主は腐りかけの野菜を手土産に僕の前に現れた。
二階建ての石造りの家。僕の他に人間は居らず、主のいない間は僕一人が住む寂しい場所だ。
以前は人間が住んでいたであろうそこには、ボロボロだが家具も一式揃っている。揃っているといっても、実際に使うものはテーブルとベッドくらいのものだ。
テレビなどと呼ばれていた前時代の遺物は、電気のない今ではただのオブジェと化している。その上に上着を掛けて、主は僕の腰掛けるベッドの右隣に腰を下ろす。
交わす言葉は何もない。言わずとも、彼の用事など知れている。
僕は黙って右腕を差し出すと、手首に巻いていた包帯を外して目を閉じた。
闇に染まった視界の中で、彼が牙を剥き出し口を開ける気配を感じた。
吸血に快楽が伴うなんて嘘っぱちだ。彼が行うそれは、僕に苦痛しか与えない。
皮膚を裂かれ、血管を千切られ、咀嚼される肉が痛む。
止血なんてしてくれない。手当てはいつも自分でやる。だから吸うのは肩口からではなく手首から。お陰で僕の手首は自傷行為でもしたかのように傷だらけだ。
夏の暑い日でも長袖を着て、両の手首には包帯を巻いて。ゴミ箱にはいつだって血に汚れた包帯が捨てられている。
僕の血は決して美味くない。彼はいつも不味そうに眉を蹙める。
だったら無理に飲まなければいいのにと思うのだが、餌の僕にはこれ以外の存在価値はない。
彼が僕を捨てるとき、僕は路頭に迷い、やがて飢えて死ぬだろう。
困窮した世界で、孤児(みなしご)の僕に与えられた運命など、それ以外には存在しない。
だから痛くても苦しくても、僕は彼に血を与え続ける。彼の餌であるために。

その、筈だったのに。

「今日は血は要らない」

ある満月の夜、僕の主は初めて僕からの吸血を拒んだ。
血を吸う以外の用事でこの家に足を踏み入れもしなかった彼が、それを拒否した。

「吸わないんですか……?」
「うん」

いつものように傍らに腰掛けた彼からは、誰とも知れない他人の血の匂いがした。
ついに捨てられる日が来たのだ。そう思った。

「今日はもう寝ていいよ。明日、話がある」

主は僕にそう言うと、僕の頭を撫でて立ち上がった。

「おやすみ、スレイン」

初めて言われた、就寝の挨拶。それも最初で最後になるのだろう。
明日になれば、主は僕に別れを告げる。食べ尽くして殺すか、貧困の中に放り出すか。どちらにせよ、永遠にさようならだ。
だから僕も、彼に最初で最後の挨拶を返す。

「おやすみなさい、伊奈帆さん」

一度しか聞いたことのない主の名前を呼んで、僕は彼の背を見送った。
窓から差し込む目映い月光。その幻想的な青に照らされたテーブルの上に、鈍色のナイフが輝いている。
僕はベッドからするりと降り立つと、それを手に取り喉仏に押し当てた。
冷たい。触れた場所にカッと熱く血が集まる。
その熱を感じながら、僕は己の喉を引き裂いた。
 
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ