ヤスとケンカした。一週間前のことだ。 「そうやって二言目には仕事仕事って。いっつもそう。そう言えば私が我慢するって思ってるんでしょ?」 「はぁ? 別、我慢しろなんて言うてへんやろ。そんなん言うたかて仕事やねんから。俺はただ、そう言うてるだけやん」 これと言った原因があったわけじゃない。いつもなら、「まぁ、いいか」と流せていたことが、その日に限ってはいやに気に障って、お互い言葉の揚げ足を取りはじめ気付けば段々とエスカレートしていった。
「そうだよね。仕事だもん、仕方ないよね。ヤスにしか出来ないことだもんね。…って、こう言ってニッコリ笑ってれば満足?」 ヤスは何も言い返さなかった。一瞬、表情を引きつらせた後、無言のまま出掛ける準備をしだす。 そこで引けば良かったのに、反応の無いことが逆に私を意地にさせた。玄関に向かうヤスの背に、思いつくまま感情的な言葉を投げつけてしまった。 「時間だって合わない! やっと会えたと思ったら、三十分もしないで彼女放って仕事に行く! ねぇ、私がいる意味ある? 私、ヤスの何? いつもいつも私だけが我慢して、もううんざりっ!!」
『―――扉が閉まります、ご注意ください』 ふいに耳に飛び込んできたアナウンスに、意識を引き戻される。 まるで大きなため息を吐くかのようにバスの扉がゆっくりと閉じる。と、くたびれた顔の私がガラスに浮かび上がった。 夕方から降りだした雨はもう止んでいたけれど、窓にはまだ水滴の跡が残っていた。ポツポツと規則正しく並ぶその粒をぼんやりと眺める。
ヤスと付き合って四年。 ケンカなんて、これまでにも数えきれないくらいしてきた。正直、もっとひどいケンカだってした事もある。ヤスのマンションで私の知らない女の人とバッタリ遭遇したこともあったし(一方的に押しかけられて困っていたと言っていたけれど本当のところは分からない)、仕事の関係で数ヶ月会えず仕舞いだった時なんて、電話口で三回に一回は必ずケンカ口調になっていた。 けれど、そんな中でも一つだけ決めていたことがある。 仕事と私を比べるようなことは絶対に言わない、と。 私にとってのヤスと世間の思うyasu。それはまったくの別人。 そう思うことで、この四年間、色んな場面で私は決定的な一言だけは口にせずに来られた。なのに。
(…なんで我慢出来なかったんだろうなぁ)
ヤスに会う前日、ずっと担当していた案件がようやく片付いた。規模のわりに人員は足らず、ほぼ私一人で対応していたようなものだっただけに、これでようやく落ち着けるとそう思っていた矢先、ロッカールームで同僚の陰口を聞いてしまったのだ。
「てかさー、正直ちょっと痛くない? 私頑張ってますからアピール。ああもあからさまに出されると、手伝う気も無くすって言うかー」 「あー、確かに。無駄に残業とかしちゃってね」 「知ってる? 課長に他の奴らは何やってるんだ? って聞かれた時、『みんな自分の仕事が大変ですから』って言ったらしいよ」 「なにそれー。こっちは、お前が抜けた穴埋めるのに頑張ってるんだろって話なんだけど」
ハッキリと名前こそ出なかったものの、会話の流れから私のことだとすぐに分かった。 彼女達の言っていた内容は間違いじゃない。実際に私は頑張っていたし、手伝いを申し出られても「大丈夫」と断ったし、課長にもそう言った。 でもそれは、みんな本当に忙しいから。大変だから。私一人でもなんとか乗り切ろうって。良かれと思って。
『次は―――。お降りの方は落し物、お忘れ物の無いようご注意ください』 降車ボタンが灯る。乗客もまばらな車内は、とても静かだった。
多分――、私は羨ましかったんだと思う。 ヤスは…yasuは有名人だ。熱狂的なファンだって多く存在している。ヤスのいる場所は、常に彼が中心となって動いている。彼がいなければ成り立たない世界だから。間違っても――陰口を叩かれることなんて無いだろう。 労って欲しかったとか、そういうわけじゃない。 ただ、情けなかった。こんな場所に居る自分が。そう思いながらも、ここに居るしかない自分が。 …あぁ、そうだ。ケンカのきっかけを思い出した。呼び出されたヤスが不満を言う私に、 「仕方ないやろ。他のみんな、もう俺のこと待ってるんやし」 待ってる人がいる。自分を必要としてくれる人達がいる。私は、それが羨ましかったんだ。
バスを降り、自宅へと向かう。時刻はもう九時を過ぎていたけれど、私と同じように会社帰りらしきスーツ姿も少なくはなかった。 抜けていた期間の仕事を片付けようと、ここ数日残業続きだった。陰口を言っていた子達が、「頑張り過ぎじゃない?」なんて話しかけてきたので、「迷惑をかけたから」と笑い返してやった。半ば意地だった。ヤスとのケンカから目を逸らしたかったのもあるけれど。
(…今日はもうご飯はいいや。早く帰って寝たい)
寝ても疲れが取れない。ヤスからの連絡も無い。仕事に行きたくない。けど、行かないわけにもいかない。八方ふさがりだ。このまま別れるんだろうか。そう思った瞬間、鼻の奥にツンとしたものが走る。 あ、ヤバい。泣きそうだ。…いいか、泣いても。周りに誰もいないだろうし。 ふっと辺りに視線を流す。と、街頭も疎らな暗闇の中で―――それは私の目に入った。
「おかえり」 「……」 ヤスだった。道端にしゃがみ込んで何をしているかと思いきや、その足元に一匹の猫が寝そべっている。この辺りでよく見かける野良猫だ。ヤスの手にした雑草を、前足でちょいちょいと遊んでいた。 「今帰り? えらい遅かったなぁ。いつもこんな時間なん?」 「残業してたから…」 「そっか、お疲れさん。なぁ、腹減っとらん? ほら、これ買うてきてん」 そう言って、右手のビニール袋を掲げて見せる。駅前にある牛丼屋の袋だ。 「冷めてもうたから、温め直してから食べた方がええかも」 「冷めてって…いつからここにいたの?」 「夕方くらい?」 「夕方って…え、それからずっとここに?」 「や、さすがに不審者扱いされると思って、適当にぶらついて時間潰してた。良かったわー、タイミング良く会えて」 なんでこんな、と尋ねるよりも先にヤスに手を取られる。温かい手だった。ヤスの手だ。そう思ったとたん、再び涙腺を刺激される。
「ごめんな」 私は強く頭を振った。もう限界だった。 「ヤスは、悪くない。私…っ、ごめんなさ…」 滲む視界の先で、微笑むヤスが見えた。手を繋いだまま私達はゆっくりと歩き始めた。 「こんな気持ちやねんなぁ、待つって」 「…?」 首を傾げる私に、ヤスは柔らかい表情のまま続ける。 「この前ケンカして、最初はな、ホンマむかついててん。仕事やし、しゃーないやろって。でもな、後になってよく考えたら、仕事絡みでお前とケンカしたのって初めてやなって」 …ヤス、気付いててくれたんだ。 「我慢させてたんやなって、今更ながら気付いた。甘えてたんやろなぁ、お前なら許してくれるって。せやから、ごめん」 そう言って足を止め、小さく頭を下げる。 「…中で待っててくれても良かったのに」 ヤスには合鍵を渡してある。再び歩き始めた私は、隣のヤスに尋ねた。 「んー…、なんやろ。それやと待ってるって言えへん気がして」 「時間潰すの大変だったでしょ。この辺、何も無いし」 「そうでもないよ。人懐こい猫もおったし。あっちの方に公園あるやんか。ジョギング中のおっちゃんに、どうもーなんて言ったりしてな」 思わず小さく笑う。ヤスの、こういう気さくなところが好きだ。
「あ、ちょっと待って」 玄関を開けようとした私を、ふとヤスは引き止めた。何をするのかと思えば自分の財布の中から合鍵を取り出し、私を置いて先に家の中へと入っていく。 「ヤス?」 「おかえり」 ―――短い言葉と共に、私へと向かって広げられる両腕。 「さっき外で会うた時、ただいまー言うてへんかったやろ。せやから、おかえり」
「……ただいま」
不安が、全て無くなったわけじゃない。 きっとこれからもケンカするだろうし、ヤスがyasuで在り続ける以上、どうしたって我慢しなければいけない場面は出てくるはずだ。それでも。
「ただいま、ヤス」
いつだってここに、ヤスの腕の中に帰って来られる私で在りたい。 おかえり、と優しい声が身体を通して伝わるのを感じながら、ヤスに会うまでの間、強張り続けていた心がゆっくりと解けていく。 ヤスの匂いに包まれながら、私はそっと目を閉じた。
「…ねえ、ヤス。牛丼のご飯冷めきってるんだけど、ホントにいつから待ってたの?」 「あ、テレビ付けてもええ? 俺、ドラマ観たい」 聞こえてないのか、聞こえないフリなのか。
翌日――、金髪にサングラスの怪しい風貌の男がこの付近をうろついていたという話を同じマンションの住人から耳にした私は、さっそくヤスとケンカをする羽目になるのだけれど、その話はまた別の機会に。
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