Book1

月並みのラブソング16
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ああ、と声を上げると、たいして大きくないはずの声に、三人の男が振り返った。

マネージャーからメールがあったあの日以外ここには来ていない。なぜか上司もいる。それも奴の隣にだ。
奴が何をしに来たのかはわかった。俺と上司の仲を取り持つため、誘い出すにはいい店を選んだのだ。
俺が立ち往生しているのに、奴はぷいとカウンターに向き直ると、バーテンダーにチーズを出せとねだった。酒に弱いからツマミは腹に溜まるものでないと意味がない。
その後ろ姿に唇をすぼめると、マネージャーが屁でもこくような音を口から発した。上司が手元のアーモンドをその額に投げる。俺の可愛い子ちゃんは、二人の男に挟まれていた。
咄嗟にどちらにするか頭で計算し、右から順にでかい男だったので、男たるもの強い者から倒せと考えた。
右端のマネージャーの首根っこをぐいっと掴むと、固めた拳をその目つきの悪い顔目掛けて……

――床にあっさりのされた。

何と言うか、いっぺんに出来事が起こりすぎたので俺にもよくわからない。奴に投げられたときほどの衝撃はなかったが、三人の男の手が伸びて。
マネージャーは後ろ向きに俺の手首を取り。
奴は椅子を回して俺の膝を足で払い。
これが一番きつかったのだが、上司は片腕で俺の頭を背後から抑えた。
気がつけば上司の膝に乗るような状態で、俺からは天井で回る巨大な空調しか見えない。
客の集まる姿が見える。バーテンダーの声が喧嘩なら外でやってくださいと冷静に言った。本来ならマネージャーが言うべきことだ。
眼鏡の反射で、覗きこんできた男が誰か一瞬わからなかった。

坊や、俺のハニーに構うなよと、上司が耳元に息を吹き掛ける。

キスの時に見た素顔ではないが、本能的に。あ。ヤバイ。仕事で失態、損害を出したとき以上の顔だとわかった。
コクコクと頷くと、何事もなかったように一人席に着く。奴もマネージャーも、上司の言いように顔は真っ赤だった。たぶん俺もだ。
ハニー?ハニーって、奴のことか!
なんてこった、ミイラ取りがミイラになったのか!人にハッパをかけてきて、実はその隣が目当てだったのか!
マネージャーがクソッ、なんだってアンタ、とぶつぶつ言いつつ、赤い顔のまま店の奥に行く。あのマネージャーはとんでもないメールを以前俺に送ってきやがったのだ。あいつも奴のことを狙ってるに違いない。
上司が一口酒を飲んで、彼の後を追う。歌姫とすれ違ったが、目配せだけで別れた。
歌姫の歌が始まると、客は席に戻った。奴は俺の肘を掴んで、さっきまで上司が座っていた席に俺を座らせる。
おまえ馬鹿かと顔を赤くして囁かれた。なんで?と顔を寄せると逃げられる。馬鹿、前だけ見てろ皆見てる、と言う。後ろを振り返ったが、客はすでに歌姫の歌を待って拍手をしていた。
首を傾げて言われるがまま、酒の瓶を見つめた。バーテンダーがいつものスコッチを無言で出してくれるが、飲みたい気分じゃない。
ちらっと奴の端正な横顔を見た。
息を深く吸い込んで、俺と上司には何もないよ、と言った。なぜそう思ったのか聞かせてくれないか、と。
奴は目を大きく見開き、直球だなと答える。数秒黙り、煙草を取り出した。バーテンダーがジッポをすぐ目の前に出す。
聞かれてる、とわかっていたが、なぜか別に構わない気がした。ここの従業員は空気のように徹して、無駄口を叩かない。なかでもマネージャーが一番目をかけているのが、この若いバーテンダーだった。
ふと思いついてグラスを拭きはじめたバーテンダーに、マネージャーとデキてるのかと聞いた。バーテンダーは俺を無表情に見つめたが、奴は煙草に激しく噎せた。
いいえ、とバーテンダーが答え、奴が――彼が歌姫の婚約者だとボソッと言う。俺は驚いて、へえ!と歌姫を見た。一度は本気で恋をして、憧れたひとだ。
おめでとう、お幸せに、と言うと、バーテンダーからありがとうございますと返る。何だか幸せな気分でウフッと笑った。
隣を見ると、奴がのけ反り奇妙な顔をしている。俺の含み笑いが気持ち悪かったのか?
奴はまたそっぽを向いて、煙草を半ばまで吸い、俺にチーズの皿を差し出した。戸惑いながら摘む。
急に、俺と上司、似てるだろと奴が言った。どこが?と口から出た。上司の顔を間近で見たとき、誰かに似てるとは思ったが――奴ではない。性格がキツイところかと手を打つと、無視された。
どこも誰にも似てないよ。おまえはおまえだろと酒を飲む。
奴が普通の、いつもの表情で俺を見たから、俺はほっとした。最初のキス以来、奴は俺の顔をいままでのようには見たことがなかった。今まで見たことがない表情ばかり見せていた。それは関係の変わった新しい奴の顔だったけど……

俺は寂しかった。

秘めた想いは秘めておくべきだったと後悔して、諦めようとするたびに奴の新しい顔を見る機会が増えて。


奴が怒ったり

奴が甘えたり

奴が怖がったり

奴が恥ずかしがったりするたびに


俺の理性は呆気なく吹き飛んで、もうどうしようもない。元の奴に戻ってもらうのはやめて、嫌われても、どう思われてもいいから全力で手に入れたい――そう考えたのだ。
たとえ両想いになれなくても、俺の知らない、初めて見せる奴の顔を見てるだけで幸福だった。
怖がらせたり、恥ずかしい思いをさせたり、悲しませたりするくらいなら、こいつのことは。

俺はいつだって諦めようと思えるんだ。

奴は歌姫の曲を目を閉じて聞いていた。だから俺も邪魔をせず、外へ出て、隣で奴と酒を飲むこと自体が初めてじゃないかと、またうふふと笑った。
奴がこちらを片目で見て、ほんの少し微笑む。それだけで俺は幸せだから、もう――――いいか。
もう、いいか。




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