Book1

月並みのラブソング番外6
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 挫折感でいっぱいだった。





 綺麗に平らげた焼きそばは腹の中でこなれず、食べた時間が遅いこともあって胃もたれだ。

 俺は何をしているんだ。

 かつての上司は異性関係も清らかなもので、結婚している当時も新人に手を出した話など聞いたことがない。当然男に興味があるわけもない。

 開店前に全部の酒瓶を磨いた。バーと言ってもうちは音楽もやる。酒を純粋に楽しむ場所や、ピアノのみの店内ほど洗練されてはいない。

 少し上等なクラブにでもなれば、ずっと静かで客も少なく、代わりに酒の値段が跳ね上がった。女がいるからだ。

 こちらから勧めなくても呑んでくれる客をつくるため、どんな細かなことにも妥協しないでやる。単調な作業のおかげで、気が楽になった。



 ただ食事をして帰った。

 約束もせずに。



 作業中に携帯電話がなった。この時間なら、スタッフの誰かだろう。完全に油断していた。


『私だが』


 どちらさまですかと言うわけがない。しかし番号は変わっている。教えてない。


『波多野。私だ』
「はい。聞こえています」


 自分の声が反響していた。アンテナを立ててもらったが、地下ではほとんど繋がらないからだ。

 上へ出ますと答えかけるのを、また遮って言われた。


『帰りは何時だ』
「え……あの。いま、店で」
『知っている。何時だ』
「あ、五時五十」
『あがりの時間だ。時計は見えてる』


 俺はいくつなんだ!学生時代でももう少しマシな応対をしたぞ。つい舌打ちをしたのが届いたらしい。『切る』という声に縋り付いた。


「翌日です。二時半か三時」
『――――いつもそれくらいなのか』
「まさか。いや、そういう日もありますが」
『わかった。迎えに行く』


 すぐに切れた。迎えに。行く?店に来るではなく?

 俺はカウンターの前で長いこと放心していたらしい。気づくとスタッフが出勤していて、店も開店間際だった。

 歌姫が来る。重役出勤者の襟首と腕を掴んだ。


「ちょ、っと。なにっ?」
「――――イタズラはこれまでだ!悪趣味にもほどがある」
「え。なんのことよ」
「とぼけるな」


 声を張り上げすぎた。何人かの気をひいてしまう。店を開ける前にすべきだった、と歯を食いしばった。

 彼女はキョトンとしている。


「番号を教えたな」
「番号?なんの。ああ、携帯……って誰に」
「父親だ!」


 歌姫は周囲を見回して、逆に俺の手を取ると壁に押し付けた。順を追って説明なさい、と母親のような口を利く。

 俺は睨みつけたまま、かかってきた内容を話した。

 彼女は唇に拳を当て、小首を傾げる。急ににやっと笑った。


「ははぁん。なるほどね」
「謝ってもらおうか」
「誤解よ。私は教えてない。名刺渡したんでしょ。違う?」


 今度はこちらがキョトンとする番だった。名刺。渡したか?渡したわけがない。いや……

 赤面は抑えられなかった。つねる膝が遠い上に、スポットライトの真下にいるせいで余計に目立っただろう。


「さあ。謝ってもらいましょうか」
「……すまん」


 歌姫はくすくすと笑い、楽屋に消えた。

 最初の客が来ても顔の赤いのは消えない。熱でもあるのかと一晩中いろんな人間に聞かれた。

 彼女はすべての出番を終えて、カウンターに座った。

 俺は使い物にならず、店をただ見て回っていては新規の客は落ち着けないだろうと、裏口から外へ出た。

 煙草を差し出してくる。火をつけてやると旨そうに煙を吐き出した。仕草に品がある。粗雑なふりをしても駄目だ。育ちが良すぎる。

 俺と同じだった。夜の世界では白すぎて、何をしても浮くのだ。


「パパはなんて言ったって?」
「迎えに……くるとかなんとか」
「じゃあ今日は車ね」
「断ろうとしたら切れた」
「じゃあ乗っていけばいいんじゃない」


 まだ何か言うだろうと待ったのに、彼女は先にあがると言い残して下へ降りて行った。

 それからの時間は長すぎて、何をしていいか困るほどだった。待ち遠しいのとは違う。不安なのだ。



 どういうつもりなんだ。

 まだ先があるのか。

 気持ちに句切をつけたはずだろう。

 期待するな馬鹿。



 決算の票をかき集めて、首を強く振る。顔が浮かんだ。過去ではなく、いまの顔が。

 来たぞ、と言う姿を見るまで、ほかのことは目に入らなかった。

 なにもだ。どういう風に戸締まりしたか、覚えていない。

 俺は狭い道路に置かれた車の助手席に乗り込み、昔何度も聞いた台詞に奮えた。





「ご苦労さん」





月並みのラブソング番外7




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