短編

□お猫さま
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こんなベタなこと、ある?
目の前の光景には心のなかで、そうつぶやかざるをえなかった。

土砂降りが容赦なくたたきつける帰り道には、雨粒の勢いよくしたたり落ちる、たよりない軒先が連なっている。その中に雨をよけて適当なところに雨宿っているのであろう、人影ひとつ。
あろうことか、その人物はおそらく、皆がうわさする泣く子もだまるそうな、不健全不優良不良少年らしき、その人。
雨でかすんで悪くなる視界のなかで、例の赤い頭は嫌に主張してみえた。神はなにを思ってわたしにこんな試練をお与えになったのか。思わず胸の内で十字をきる。

なにかと穏やかでないうわさのつきまとう彼とは、もちろん話をしたことなど、一度もない。
3年目を迎えた学校生活の今になっても、接点など、これっぽっちも、今の今までまったくもってあるはずがなかった。単純にクラスが同じになることがなかっただけの話だが、遠い存在でも目立つ彼のうわさは、およそわたしが関わるには遠すぎるだけのことはあっても、時折耳にするようなことはなきにしもあらず。将棋が強いって、どこぞの誰かが話してたっけな。

その逃れられない強制イベントの存在に気づいてしまってから、なかなかそこから帰路の一歩を踏みだせないでいた。
その場をよけて通る手段はない。頭を守るものが傘なのであれば一等よかったのだが、運悪く本日は、予報外れの雨。帰り道で突然降られてしまったので、心底参った。よってわたしの頭上にあるのは、薄ぺらいカバンひとつ。断じてしのげている状態ではない。
無情にも雨足は増していく。一刻もはやく帰りたい一心だったが、足が地面にはりついたようにはなれない。
どうやってこの場をしのごう。まず、声をかけるか、否か…この微妙な狭さの道で、無視を決め込むのもまた、おかしな話であるし…等々、彼の居座るその一点をにらむように、ぐるぐると思考を重ねていると、あることに気づく。不自然にうつむき気味にしゃがみこむ彼の手は、傍らにあるなにかにのびていた。黒いかたまり。なんだろう…あ、猫?
その存在をみとめた瞬間、おもむろに顔をあげた彼とばっちりと目が合った。

「なにやってんだ」

カバンを頭に固まるわたしを不審に一目した彼は、ごもっともなご意見を訝しげに放った。
なんの用意もできていなかったわたしは、ただ口ごもるしかない。雨だか冷や汗だかなんだかよくわからないものを全身に流し、あれこれと弁解の答を考えて、で、しぼりだした。「ね、猫だなって」

ああ…、とふたたび足もとへ静かに視線をもどすと、さっきしていたのと同じように、彼の手がわしわしと猫のちいさな額をかいた。
かわいい、黒猫。遠まきだったのでよくみえなかったけど、なんだか猫はご満悦顔。状況も忘れて、ひたすらになごむ光景であった。

「お前も入れば?」

そこ、と軒下の向こう側を視線で指して、彼が言った。
困った。丁重にお断りして安息の自宅へ早々に帰る、と、泣く子も黙る彼とスリル満点の雨宿り、とを天秤にかけて選びとるのは間違いなく前者であるだろうに、その罪深い生きものの存在が、わたしの判断を惑わしてしまった。
少し迷って、気がつくと、無意識に歩みをすすめて、彼の示した猫をはさんだ向こう側に、しずかに腰をおろしてしまっていた。
思いのほか近い距離から笑うでもない、鼻をすするような音がして、いくらか後悔する。
い、いいもん。ちょっと触って帰るだけだし…。誰に言うでもない、自分に言い聞かせるように、そう念をおした。

おそるおそる横目で盗み見た彼は、猫となかよく上から下までずぶぬれで、長めの前髪からは、かぶったぶんだけの水滴がしたたっていた。かわいそうになるくらいのずぶぬれっぷりである。
普段の彼すらこんなに近くで拝むような機会はなかったため、非常に変な気持ちになる。加賀くんて、こんな顔してたんだな。

「家、近いのか」
よもや質問がとんでくると思わず、ドキリと肩を強ばらせながら、必死の思いで返事をかえす。
「…微妙。近いような、遠いような」
なんじゃそりゃ。そういって鼻で笑うように、彼がわたしを一瞥する。
このときにはもう、肩の力はどこかへ抜けていた。
加賀くん、こんな顔して笑う人なの?なんか、ぜんぜん、思ってたのと、ちがうような…。

頭ではてなを浮かべるあいだにも、彼とぽつりぽつりとお話をする。

加賀くん、家は? 微妙だな、近いし遠い。
将棋、強いんだってね。 おう、クソ強い。

なんでもない話が、妙に心地よかった。自分も全身ずぶぬれで、心も体も悲惨な有り様なはずなのに、彼と言葉をかわす度、なぜか身体の底からじわり、じわり、あったかくなっていくような、不思議な感覚。
足もとのすぶぬれ猫をひかえめになでる。ぬれた毛並みは気の毒に、冷えきってしまっている。
しかし喉をならして目を細める姿は、いまのわたしと重なって見えた。裏腹なくすぐったい想いを、膝頭に口元をうずめるようにして、ごまかした。


猫の黒い背を水気をはらうように、ゆっくりとなでてやるしばらくの間、視界にまぎれる雨垂れにまじって、自分の前髪から落ちてゆくいくつかの水の粒をぼんやりと見た。そこでふと、思い出す。
お昼、委員会で食いっぱぐれたお弁当があったっけな。
ごそごそとカバンをさぐり、お目当てのものをさがしだす。
とりだしたお弁当箱は、それなりの重さをもって、膝の上で沈黙した。お昼食べられなくて、結果よかったかもな、などとお昼に悔しい思いをした自分へグッジョブをおくる。
お腹がすいていたことなども思い出しつつ、ひもじい思いを押し殺し、半分ほど中身の残るその箱のふたを粛々とあけた。
猫が食べても大丈夫そうなものをえらんで、どうぞお食べ、と小さく揃った足元においてやった。しばらく鼻でくんくんすると、がっつくでもなく謙虚な姿勢で、猫はゆっくりと施しをうけとった。
うまい?そうかそうか。満足げに食事をする猫をながめていると、すっかり意識の外にあった向こう側からの、刺すような視線を感じた。

「俺にはくれねぇのか」

すくみあがる心で目線をあげると、一連の流れを見ていたらしい彼が、頬に手をあて半ばものほしげに、こちらをにらみつけていた。
い、いるの??とか、食べ残しですけど…?とか、批難めいたことばが一気に押しよせ浮かんだが、目の強さに負けてぜんぶがたちまちひっこんだ。
この物言わせない様相が、すべてのうわさの謂れだろうか。

「た、たべる?」
おそるおそるさし出したお箸の先には、無事なまま残っていた、たまご焼きひとつ。
一拍それをみつめた彼は、迷うふうもなく、ひとくちで、見事にぱくりと口におさめた。
心で謎の感嘆の声をあげている間に、前に向き直りどこか遠くを見つめる彼。
猫といっしょにならんでもぐもぐする様は、実に不可思議で、ハートフルで、とにかくおかしかった。餌付けのようだ…とながめた得体のしれないうわさの彼は、とても鬼の子にあらず、まるで親しみ深い、珍獣かなにかのようにみえた。

ひとしきりもぐもぐしたあと、珍獣あらため加賀くんはエサをしっかり飲みこんで、鼻をすすった。やけに険しい顔をしていたと思ったら、真っ直ぐにわたしに向き直る。そしてやけにかしこまって、「うまい」と一言。
ごちそーさん、とつづいた声は、激しさを増す雨音もあいまって、えらく遠くのほうに聞こえた。
言葉を失ってしまったわたしは、ぎこちないはにかみを、照れくさく足もとの猫におとすしかないのだった。
頭のてっぺんからつま先まで、なぜか熱くってかなわない。
きっと、気のせい。ぜったい、気のせい。


雨がやむ気配のない中、そのあと彼と二言三言、かわした話のことは、あんまりすぎてよく覚えていない。
ひたすらに膝頭に顔をうずめて、猫か、地面にはねっかえるたくさんの雨粒をみつめながら、必死に心を落ち着かせるしかなかった。
居心地のなさにそろそろ帰ろうか、でもこの場を離れてしまうのも、とても惜しいような、激しい矛盾のせめぎ合いに悩んでいると、寒気を感じてくしゅん、とひとつ、くしゃみがこぼれた。
寒いし、お腹すいたし、やっぱ帰ろ…と、鼻をすすりながら心を決めたそのとき、突然に視界が暗がり、頭にかぶさる重い感触。変な声がでた。
不意をついて降った閉塞感に、パニックで滅茶苦茶にうろたえつつ、狭まった視界からあわてて周りをうかがえば、腕をこちらにずいとのばした、寒々しい白シャツ姿の彼が見切れてみえた。「羽織ってろ」なんて言うのがかぶさった幕の外から聞こえてきて、上着をよこしてくれてのだと理解する。

理解はできても、気持ちはまったくもって追いつかず、消え入るようなしょぼくれた声で、ありがとうをしぼりだすので精一杯だった。

淡く体温の残る学ランは、雨水をすったせいなのか、いまの心のせいなのか、とんでもなく重く頭にのしかかった。
よく見るとしわくちゃなような気もするんだけど、わざわざ水気を除いたりなどしてくれたのか?そうなのか…?などと、自惚れた考えが、浮かんでは消えをくりかえす。
しかして、ひとり歩きの風評が、わたしの耳に届くまで、小魚が大魚にどのようにしてなり得たのかは知る由もなかったが、この空間がすべての疑問の答えだった。終わりに自分の存在が重なって、はじめて「本当」になるのだと思い知る。
しかし、頭に放ってくれてよかった。いま顔を見られてしまっては、わりと死ねる。いろんな感情がこぼれでることのないように、あたたかな帳のなかに、隠れるようにして身を忍ばせた。

…しまった、帰るタイミングを失ってしまった。何気ない延長戦の決定に我に返り絶望していると、ふいにとなりから、鼻で笑うようなおかしな気配。反射的にそちらを見ると、意地悪そうな目付きの彼。
さっきからいろいろと、心臓にわるい。困惑と疑念と羞恥とを盛大に顔ににじませていたであろうわたしに、口端をきれいに持ち上げて、悪名高いうわさのお人は、いたずらっぽく、あやしく笑った。

「次回は置き傘をお勧めするぜ、みょうじサン」

あれ?なんで、わたしの名前…と言うよりはやく、わたしの顔を面白く眺めるように見やった彼の指した先には、間抜けにカバンからのぞいた、縦笛の袋。律儀に記した馬鹿まじめな文字が並んでいた。
ふ、不可抗力だ。格好のつかなさに赤面するしかないわたしを、ますます面白がって笑ったふうな彼は、しずかに雨の降りつづける空を、仰いでぽつりと小さく言った。
「俺のためにもな。」

驚いて見たその横顔に、今度こそ、この数年ちょっとを無駄にしてきてしまったような、不思議に残念な気持ちが湧く。

これからだって、まだ、遅くはないかな。

「…わたしからも、おすすめしておく」
わたしのためにも。

とんでもない気恥ずかしさでとなりを直視できないそのかわり、足もとでちぢこまる猫の背を、めいっぱいやさしくなでてやった。
今日だけは、雨、もうすこしだけ、降るといい。


(2023/04/04)

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