S 最後の警官長編

□十話
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無事に、と言っていいのだろうか。
一応のところ、ストーカーによる傷害事件は犯人の逮捕によって幕を閉じた。
この後、裁判が行われることになるとは聞いたけれど、正直示談で済ませてもいいと思っている。
彼のしたことは決して許されることではないことは分かっている。
それでも……一度は好きになって付き合ったことのある男性。
『甘い』と言われるかもしれないけれど、更生の余地があるのならば刑務所には行かずに社会復帰してほしいと思ってしまうのは、仕方のないことではないだろうか。



「あ、おかえりなさい」
「あぁ……引っ越しの件は、どうなった」
「それがですね、不動産屋さんが今日お休みでして。
明日行ってこようと思います」
「……そうか」



小さな溜め息を吐いた蘇我さん。
いつまでもご迷惑をおかけしてすみません……近日中にはお暇させていただきます。
そんなことを考えていたら、やけに熱い視線を送られていることに気づいて思わず首を傾げた。
顔に何かついてる?



「……蘇我さん?」
「いや……何でもない」
「そう、ですか?」



じゃあそんなに見ないでください、とも言えず居心地の悪い思いをしながらキッチンに向かう。
この一ヶ月程でこの部屋のキッチン事情はだいぶ改善された。
一人暮らしの男性が最低限使う程度の調理器具しかなかったけれど、私が文句を言いまくってコツコツと買い揃えた物が其処此処に置いてある。
自分の部屋にあるものと重複しているものもあるし、お世話になったお礼にキッチン用品は置いていこうかな。
置いていったところで蘇我さんが使うとは思えないけれど、あって困るものでもないし……蘇我さんに彼女ができたら嫌がられるかもしれないけど。
そこまで考えて、少し胸の奥が痛むのが分かった。

この部屋は初めて来た時から居心地が良かった。
極限状態だったこともあるのかもしれない。
それにしても彼の存在が感じられるこの部屋は初めて来た場所とは思えない程に安心できて。
いつの間にか、片付けに帰る自分の部屋よりも心落ち着く場所になってしまっていた。



「あ、そうだ。蘇我さーん?」
「何だ」
「今日送別会しましょ、送別会」
「……は、?」



眉間の皴が深いです。
せっかく早い時間に帰って来たんだし、私の引っ越し当日に蘇我さんが帰って来られる保証はどこにもない。
それならば今日やってしまった方がすっきりと部屋を出ていくことができる、はず。
送別会をしたい、と自分で言うのもどうかと思うけれど、自分から言わないと何事もなかったように別れの日が来てしまいそうで。

おそらく色々と言いたいことがあったであろう蘇我さんが、しばらくの間の後で『分かった』と深い溜め息を吐いた。





























「ということで、かんぱーい」
「…………」



外食の気分じゃない、という何とも難しい発言をする蘇我さんの意向に沿う為、デリバリーを頼んだ。
今日はお酒もOKとのことだったので、近くのコンビニでお酒とおつまみを購入。
いつも食事するダイニングテーブルではなくて、ソファに並んで乾杯をする。
送別会というか単なる宅飲み状態だけれども、渋々ながらに付き合ってくれる蘇我さんは何だかんだで優しい人だと思う。

他愛もない会話、というよりも私が一方的に話しているだけの送別会。
いつもならもう少し返事があるのだけれども、今日はいつにも増して静かなのは気のせいではないはず。
やっぱり自分から送別会なんて言い出したのに呆れてるのかな。
緊急事態とは言え、好意に甘えて一ヶ月も居候させてもらっていて最後に送別会とか……私だったら嫌かも。



「蘇我さん?」
「……何だ」
「あの、色々とご迷惑をおかけしました。
一ヶ月とちょっと、大変お世話になりました。引っ越し日が決まるまで、もう少しだけお世話になります」
「…………」
「えー、と……蘇我、さん?」



カラン、と彼の手から空になったビール缶が滑り落ちた。
気づけば蘇我さんの周りにはいつの間にか空き缶が転がっている。
……買ってきたお酒全部飲んでませんか?
待って待って、500ml缶の6本ケース買ってきたんだけど……蘇我さんってそんなにハイペースでお酒飲む人だった?



「蘇我さん?大丈夫ですかー?」
「……あぁ」
「いや、明らかに大丈夫じゃないですよね」



普段よりも目が据わっているし、顔も赤い。
やけに静かだと思っていたけど黙々と飲んでいたから?
とにかく水か何かお酒以外の飲み物を持って来よう、とソファから立ち上がれば急に手首に熱い感覚。
驚いて見下ろすと蘇我さんの手ががっちりと私の手首を捕まえていた。
あ、これは相当酔っている。
だって、私の知る限りで蘇我さんはこんなことをする人ではない。



「蘇我さん、お水持って来ますね?」
「……いい」
「え?」
「いいから、ここにいろ」



有無を言わさない彼の言葉に反発することはできず、座っていた場所に再度腰を下ろす。
掴まれた手首が熱い。
そこだけに意識が集まる。
私、何かした?
普段なら何気なく聞けるはずのことなのに、どうしてか今日は口にできなくて。
耳が痛くなる程の沈黙が部屋の中を流れる。

どのくらい、こうしていたのだろう。
やっぱりお水持ってきます、と言いかけた言葉は蘇我さんによって遮られた。



「これからも、ここにいてくれ」



ぽつり、と呟くように吐き出された言葉。
聞き取れなかった、というより彼から出てくる言葉だとは思えなくて、えっ?と間抜けな声が漏れた。
俯き加減だった蘇我さんが、ゆっくりと顔を上げてまっすぐに私を見つめる。
アルコールのせいか、瞳がやけに潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。

喉がひりついて声が出せない。
蘇我さん、今何て言った?



「初めは……姉さんの姿に重なって見えた」
「……お姉さん、」



同じ男に二度殺された、と言っていた蘇我さんのお姉さん。
この部屋に来ることになった時に話は聞いた。

初めて会った、あの合コンの日。
恐怖で身を固くした私の姿が、お姉さんの姿に重なって見えたと言っていた。



「今度こそどうにかしたいと、そう思っていた……俺の自己満だった」



これも聞いた。
あの時の悲しげな表情は今でも忘れることはできなくて。

心臓が、痛い。
掴まれた手首が、熱い。

どうして過去形なの、?
何でそんなに真っ直ぐに見つめるの、



「……蘇我、さん、?」
「帰って来た時に、部屋の灯りが点いていて、お前に…………桜月に『おかえり』と言われるのが、心地良かった」
「っ、」



初めて、名前を呼ばれた気がする。
冗談混じりに『お前じゃないですよー、桜月ですよー』と何度も言って来たけれど、それでも決して名前で呼ばれることはなくて。
今、ここで呼ぶのは、狡い。



「蘇我さん、」
「何とも思ってない女を家に上げたり……ましてや一ヶ月も泊めたりなんか、しない」
「、え」



それってどういう意味ですか、と問う為に開いた口は蘇我さんの肩で押さえられて、言葉にすることができなかった。


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