MIU404

□ハンドクリーム
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頬を撫でる風が冷たさを帯びて、少しずつ季節が移り変わっていくのを肌で感じられるようになった。
それと同時に今年もまた悩ましい、この時期がやってきてしまった。



「たっだいま〜」
「おかえり」



一通りの家事を終えてちょうどスキンケアが終わった時、今日もご機嫌な彼が帰宅を告げた。
手洗いをしてリビングへやって来た彼がいつものハグをしに私が座るソファの後ろへと回る。

一度避けたらどんな反応するんだろう。
そんなことを思いながら今日も優しい抱擁を甘受する。



「今日も疲れた〜」
「お疲れ様。ご飯とお風呂、どっちにする?」
「そこは『それともワ・タ・シ?』ってつけて欲しいなぁ〜」
「そういうの本当に結構でーす」
「何だよ、結構すんなって…………ん?」
「……なに?」



いつもの軽口を叩いていた藍が何かに気づいた素振りを見せて鼻を利かせている。
何も変わったことはないと思うけれど、彼の鼻には何かが届いたらしい。



「桜月、洗剤変えた?」
「え、変えてないけど……」
「じゃあ柔軟剤は?」
「同じの、っていうかこの前詰め替えしたばかり」



何か匂いが違うのか、しきりに鼻を動かしている。
洗剤も柔軟剤も、何ならシャンプーもトリートメントもボディソープも、香りのあるもので変えたものは何一つない。
そしてしきりに匂いを嗅がれるのは何となく恥ずかしいものがある。



「んー……何だろ、花みたいな匂い」
「あ、もしかしてハンドクリーム?」



空気が乾燥すると同時にやってきた手荒れの季節。
家事で何かと水を扱う度にどんどん手の潤いがなくなっていく。
先程、一段落したところでようやくハンドクリームをつけることができたのだった。
寝る時には薬効性の強いハンドクリームをつけるけれど、日中は潤いを与えるのと同時に少しでもこの季節を楽しく過ごせるように香りのいいものを選んでいる。
そういえば彼の前でこのハンドクリームをつけるのは初めてだったか。

ハンドクリーム、と聞いて私の手の甲に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ藍。
これはこれでまた恥ずかしいものがある。



「あー、これこれ。この匂い」
「家事するとカサカサしちゃってね」



しっとりとした彼の手が羨ましいと何度思ったことか。
大きくて指が長くて、手荒れなんて知らなそうな綺麗な手。
その手を重ねられて何となく女として負けた気がするのは何故だろうか。
そんなことは意にも介さず、ハンドクリーム効果でお肌つるつる〜、なんて私の手を撫でている彼。
何とも能天気で、別な意味で羨ましい。



「ちょーいい匂い」
「藍も付ける?」
「ん、」



そんなに気に入ったなら少しくらいつけてあげよう、と先程片付けたハンドクリームのチューブを取り出して、差し出された手の甲に少量乗せてあげる。
とりあえずつけばいいという考えが明らかな、雑な伸ばし方はこの際置いておこう。
元々伸びがいいクリームだから藍の大きな手にも少しの量でも十分行き渡るはず。
んふふ、と若干気持ちの悪い笑い声を漏らしながら自分の手の甲の匂いを嗅ぐ藍。



「……ん?」
「どうかした?」



ニヤニヤしていた彼が眉を寄せて首を傾げる。
急にどうしたのだろう。
あんなにいい匂いだと顔が緩んでいたのに。
一度顔を離して、もう一度匂いを嗅ぐ藍。
その頭上には疑問符が浮かんでいるように見える。



「なーんか違う」
「いや、同じのだし」



彼の手の甲と自分のそれの匂いを比べてみるけれど、全く同じ香り。
同じハンドクリームをつけたのだから当然のことと言えば当然なのに、この男は一体何を言っているんだろうか。
腑に落ちないといった表情で自分と私の手の匂いを嗅ぎ比べようとして、顔を行ったり来たりさせている。

私には同じにしか思えないけれど、彼の優れた嗅覚は何か違いを捉えているらしい。



「やっぱり桜月の手の方がいい匂い〜」
「……は?」



暫く匂いを嗅いでいたと思ったら、何を言い出すのか。
同じハンドクリームでこちらの手がいい匂いだなんてあるはずもないのに。
今度はこちらが首を傾げる番だけれど、自己完結してスッキリしまった彼に何度もか言う気力もなくて。



「……あ、そう」
「そうそう〜、この匂いちょー癒やされる〜」



ソファに座っていた私の後ろに無理矢理入ってきて腰を落ち着けてしまった藍。
ちょっと落ちそうなんだけど、と抗議すればお腹に腕が回り密着する形になる。
これで良し、とばかりに満足そうに息を吐いた彼がまた私の手を取って匂いを嗅いでいる。
これはきっとしばらく解放してくれない。
家事が終わってて良かった、と思う反面、家事が終わってなかったらハンドクリームつけてないし、こんな風に捕まることもなかったかな、なんて。



「なーに考えてんの?」
「夕飯何にしようかなーって」
「そこは藍ちゃんのこと、って言うとこ〜」
「はいはい、藍ちゃんのこと藍ちゃんのこと」
「2回言うなっての〜」



冗談混じりに言えば、若干本気で返ってくる。
けれど、これも私達の言葉遊びのようなもの。
その証拠に背後の彼はご機嫌のまま、時折私の手の匂いを嗅いでは弄んでいる。



「ちょーいい匂い……」
「藍?寝ないでよ?」
「んー……」



ぽつりと呟いた彼の声が寝る直前のそれで、慌てて振り返ろうとするがしっかりとホールドされていてそれも叶わず。
そのうちに規則正しい寝息が耳に届いた。
全く、これでは何もできない。
せめてスマホかタブレットを、と思ったけれど手を伸ばしても届く範囲にはなくて。
諦めて脱力すれば眠っているはずなのに更に腕に力を込められた。

仕方ない、諦めよう。
本当に夕飯のメニューを考えながらぼんやりしているうちに、程良い温もりに眠気に誘われて、いつの間にか微睡みに意識を委ねてしまった。


*ハンドクリーム*
(……ん、あ?ごめん、桜月。俺寝てた?)
(…………)
(桜月?)
(zzz……zzz……)
(……きゅるっと魔人が腕の中にいる)


fin...


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