MIU404

□君の側にいたい
1ページ/1ページ


彼はいつでもどこでも、すぐに『きゅるきゅる〜』なんて言葉を使う。
だから私もずっと言ってきた。
『別な良い人ができたらすぐ言って』と。

今日も賑やかしく帰って来た彼が仕事中の話を一から十まで、聞いてもいないのにマシンガンのようにまくし立てている。
語彙力はないけれど、身振り手振りを交えて楽しそうに話すものだから、こちらまで笑えてくる。



「でさ、そこにいた子がきゅるっきゅるしててさ〜」
「ふーん……」
「桜月?」



また出た、きゅるきゅる。
これはもはや彼の口癖のようなもので、深く気にすることではないのは分かっている。
それでも引っかかってしまうのは、私の精神状態が良くないからか。
昨日は出社して定時間際に至急の仕事が入って深夜まで残業になって。
へとへとで帰って来た挙げ句、生理になって。
しかも彼は当番勤務で不在で。

とにかくまともな考えができる状態ではない、と誰に言うでもない言い訳を重ねる。



「楽しそうで、いいね」
「ん?」
「外に出れば、きゅるきゅるしてる子、いっぱいいるもんね」
「桜月?」



これ以上口を開くのは、駄目。
言ってはいけないことまで口から出てしまう。
それでもぼろぼろになった精神状態で自制することができなくて。



「すぐに言ってよ」
「……何が?」
「他に、別に良い人が、気になる人ができたら、言ってよ」
「…………」



駄目、駄目だ。
こんなこと、思っていない。
そんなこと、望んでいない。

他の誰にも渡したくないのに、どこにも行ってほしくないのに。



「…………なぁ、」
「っ、」



私の言葉を俯いて聞いていた藍から発せられた、聞いたことのないような低い声。
その声の低さに背筋が粟立つ。
初めて感情を顕にした彼に怒りをぶつけられた、成人式の夜のことを彷彿させた。

けれど、あの時とは違う。
怒りだけでなく、どこか哀しげで。



「あ、いちゃ……」
「それ、本気で言ってる?」



上げられた瞳が真っ直ぐに私を捕らえた。
暗くて、私を見ているようで何も映していないような、黒い瞳。
膝に置いていた手を思わず握り締める。



「何とか言って。今の、本気?」
「それ、は……」



違う、と発しようとしたが、ひりつく喉から漏れたのは短い呼気音だけ。
何か言葉を紡ごうとするけれど思うように声にならない。

そんな状態がどのくらい続いただろうか。
実際には5分も経っていないかもしれない。
けれど今の私には永遠にも感じられて。
膠着状態が続くかと思いきや、長い溜め息の後で無言のまま立ち上がった彼がドアの前で、ぽつりと一言残して部屋を出て行った。
ドアの閉まる音の後で、また静寂が訪れる。
耳が痛いくらいの静寂。

出ていく直前の彼が何と言ったか、私には分からない。
けれど『もう無理』とか、きっとそんな言葉。

こんな自分が自分で嫌になる。
些細なことでネガティブになって、八つ当たりして。
呆れられて、見放されて当然だ。



「っ、……も、やだ………」



一粒涙が落ちたと思ったら堰を切ったように溢れて止まらない。

こんな自分が嫌だ。
素直になれない自分が、
捻くれたことしか言えない自分が、
大嫌い。

それでいい、と言ってくれた彼に甘えて、傷つけて。

別れたく、ない。
側にいて欲しい。
抱き締めて欲しい。



「、藍ちゃん……」



彼だけは、手放せない。
もう間に合わないかもしれないけれど、
それでも、



「っ……」



彼が出て行ってから10分は経っただろうか。
彼の足の速さなら、もしかしたらもう官舎に着いてしまったかもしれない。
もしそうだったとしても、一言謝りたい。

部屋の鍵とスマホを手に取って、部屋から飛び出した。

































「っと、桜月?」
「藍、ちゃん……」
「ん?どした?何、どっか行く?」
「藍ちゃん……」



ドアを勢い良く開ければ、目の前にはビニール袋をぶら下げた彼の姿。
先程までの暗い雰囲気はどこへ行ったのか。
普段と何ら変わらない様子で顔を覗き込んできた。



「何で泣いてんの?どした?どっか痛い?」



止まらない涙を見て、心配そうな顔で目元を擦ってくる。
思考が追いつかない。
怒ってない?
何で?



「藍ちゃん……」
「ん?」
「何で、」



絞り出せたのはそれだけ。
んー……、と難しい顔をした藍に促されてもう一度部屋の中へ。
ソファに座らされると、ぶら下げていた袋に手を入れて次々に買ってきた物を出してテーブルに並べていく。
ミルクティー、ホットレモン、一口チョコ、ドーナツ、ピザまん、ワッフルにバウムクーヘン。
全部、私の好きな物。



「コンビニ行くって言ったじゃん?」
「……聞こえなかった」



マジか〜、と頭をかき回す藍に説明を求めれば、本当はコンビニに行った後、官舎に戻るつもりだった、と。
ただコンビニの中をぶらぶらしていたら私の好きな物ばかり目に入ってしまい、気づけば手に取って会計していたという。



「昼に帰って来た時、顔色悪かったし、もしかして体調悪いかなーって思って?
これ食いながらもう一回話そうと思って帰って来た」
「藍ちゃん……ごめんなさい」
「ん、泣かない泣かない」



抱き寄せられてぽんぽんと頭を撫でられる。
求めていた温もりに涙腺が更に緩む。
ごめんなさいを繰り返す私と頭を撫で続ける彼。



「桜月?ちょっとこっち向いて?」
「ん、」



呼びかけられて顔を上げれば、彼の大きな手で両方の頬を包まれる。
ぼろぼろになった顔を見られるのは恥ずかしいけれど抗うほどの気力がなくて、なされるがままになってしまう。



「何回も言ってるけどさ、俺めっちゃめちゃ桜月のこと好き」
「……うん、」
「だから他に良い人とかないよ?」
「ん、」
「きゅるきゅる〜って言うけど、一番は桜月だから」



桜月が一番っていうか桜月だけだから、と笑いながら話す藍。
その笑顔が愛おし過ぎて、止まったはずの涙がまた零れた。



「藍ちゃん、」
「うん?」
「私、藍ちゃんじゃなきゃやだ」
「うん、俺も」
「藍ちゃんがいい」
「うん」
「どこにも行かないで」
「うん、行かない」
「藍ちゃん」
「うん?」



大好き、と涙混じりに言えば、俺も、と返されて今日初めてのキス。
唇に、額に、瞼に、顔中にキスが降り注ぐ。
その感触が擽ったくて、思わず笑いが漏れる。



「やーっと笑った」



そう言った彼の顔がやけに嬉しそうで、また一筋涙が頬を伝った。


*君の側にいたい*
(あー……)
(なに?)
(ごめん、ちょっと止めらんない。ベッド行こ)
(待って待って、今日は本当に無理)
(何で)
(……昨日から生理)
(マジで?)
(マジで)
(……………オッケ、とりあえずぎゅーってして寝よ)


fin...


次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ