S 最後の警官

□かけがえのないもの
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玄関のドアを開けてみるが、いつもの出迎えはなく。
訝しく思い、部屋の中へと歩みを進める。
もう眠ってしまったのか。
夜中というにはまだ早い時間、それにいつもの就寝時間よりもだいぶ早い。
しかもリビングの電気が点けっぱなしだ。
うっすらと音楽が流れているのが聞こえる。
リビングへと続くドアを開けてみれば、こちらに背を向けて何やら体を動かしている姿が目に入った。



「桜月」
「え、あっ?伊織?何で?」
「…向こうを出る前にメール入れたはずだが」



背後から声をかければ大袈裟なほど体が跳ねた。
タブレット端末を操作して見ていた動画を止めて振り返った桜月の目は零れんばかりに見開かれている。



「あ、ごめん。見てなかった…ごめんね」
「いや、別に構わない」
「ご飯は?」
「済ませた」
「ですよね…」
「それより何をしていた?」
「最近、体動かすのをサボってたのでちょっと動画見ながら運動を…もうちょっとで終わるから、最後までやっていい?」
「あぁ」



ごめんね〜と言いながら再度タブレットを操作して動画を再生する。
彼女にぶつからないように後ろから端末の画面を見れば、ヨガのような動きをしている女性の動画。
最近はこういう動画も出回っているのか。

もうちょっと、の言葉通り5分もしないうちに動画は終了し端末の画面を消してこちらを再度振り返った桜月。



「ごめんね、伊織。改めておかえり」
「あぁ、…ただいま」



一体どのくらいの時間、やっていたのだろうか。
額や首筋から汗が流れている。
サボっていたならまた少しずつ再開すればいいものを、今までの分を取り戻そうと急に長い時間行うのは間違いなく体を痛める。



「どうかした?」
「…どのくらいやっていたんだ」
「んー?伊織のメールの前から?」
「やり過ぎだ…」
「やってたら楽しくなっちゃって」



メールを送ったのは20分ほど前。
それより前からとなると少なくとも30分はやっていたはず。
少し加減というものを知ってもらいたい、と溜め息を吐けば、



「手軽に外でジョギングできればいいんだけどさ」
「夜、一人で走りに行くのはダメだ」
「……そういうと思った。
伊織みたいにトレーニングも仕事の内なら一石二鳥なんだけどねー」



タオルで汗を拭いながら笑う彼女はどこかさっぱりとしたようで。
その顔をもっと見たい、と柄にもなく思う。



「……今度、」
「ん?」
「早く帰って来たら一緒にウォーキングに行くか」
「え?」
「……身体、動かしたいんだろ」
「いいの?」
「いつ、とは約束はできないが」



それでもいいなら、と言葉を続けようと思ったが嬉しそうに笑う彼女を見るとその後の言葉が口から出てこなくなった。



「……ねぇ、伊織?」
「何だ」
「その約束、今からでもいい?」
「は……?」
「ウォーキングっていうか、散歩?
今から行きたいなー、と思うんですが……ダメ?」



相変わらず突拍子もない、とは思うけれどそれすらも悪くないと思ってしまう辺り、本当に惚れた弱みとはよく言ったものだ。
小さく息を吐いてジャケットをハンガーに戻せば、明らかに小さくなる桜月。
勘違いも甚だしい。



「早く着替えて来い」
「……え?」
「その汗だくの状態で行くのか」
「、シャワーだけ浴びさせて!」



タオルを引っさげて脱衣所へと姿を消す彼女。
どうせ風呂に入って寝るだけ、それならたまにしか聞いてやれない彼女の願いに付き合うのも悪くない。
自分ではワガママだと言うが、これくらいならワガママにも入らない。
いつもなかなか帰って来られない自分を待つばかりで、帰って来ても呼び出しがかかればすぐにとんぼ返り。
職業柄、仕方ないと言えばそれまでだが、行ってらっしゃいと見送られる時の寂しそうな笑顔に胸を締め付けられる。
だからこそ一緒にいる時には最大限、彼女の願いを聞いてやりたい。


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