S 最後の警官
□明日への活力
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珍しく連日で帰宅できた日。
部屋のドアを開けてみれば、玄関以外の電気が消えている。
手洗いをすませてからリビングへ向かえば、玄関から漏れる明かりで辛うじて輪郭が見える。
室内にしてはひんやりする、と目を凝らせばベランダに続く掃き出し窓が大きく開かれていて、小さな背中が月明かりに照らされているのが目に入った。
「桜月」
「………伊織、おかえり」
「あぁ」
照明はそのままにリビングの中へと足を向けて彼女の隣に腰を下ろす。
名前を呼ぶと一瞬顔を上げるが、また膝を抱えて俯いてしまう。
いつも能天気に笑う彼女がこうなるのは珍しい。
そっと肩を抱けば、服越しにも分かるほどに冷えている。
いつからこうしていたのか。
「どうした」
「ん……ちょっと、仕事でミスっちゃって」
「そうか」
予想はしていたが的中。
大概、彼女がこの状態になるのは仕事が原因。
人の事を言える質ではないが、彼女も仕事に入れ込み過ぎる。
自分で上手くコントロールできている時はまだいいが、たまにこうしてひどく落ち込むことがある。
「なーんでこんなにできないこと多いんだろ」
ぽつりと独り言のように呟く声が聞こえた。
彼女自らが言っていたネガティブ沼というものに嵌まっているらしい。
楽天家に見えて意外と脆い。
自己肯定感が低いというか、自己受容感が低いというか、こうして負の感情に飲み込まれると抜け出すのに時間がかかる。
「人には得手不得手がある、仕方のないことだ」
「それは、そうなんだけどさ……」
今回の沼は相当深いらしい。
寒い時期になると日照不足で鬱々としやすくなるとは聞くが、彼女の場合はそれもあるのだろう。
しかしながら時刻は既に21時を回っていて、太陽光を用いてホルモンバランスを整えるというのは現時点においては不可能。
そもそも太陽光を浴びたからと言って一日二日で改善されるものでもないが、やらないよりはマシ。
そう思う程度に彼女は参っている。
せめてこの冷え切った身体だけでも何とかしておかないと、更に鬱々とした状態が続きそうだ。
「桜月」
「ん……?」
「ここだと冷える。中に入るぞ」
「そう、だね……伊織が風邪ひいちゃう」
力なく笑う彼女が膝を抱えていた腕を解いて、ゆっくりと立ち上がる。
フラフラとした足取りでリビングのソファへと向かい、身体を沈めている。
彼女の身体同様に冷え切った室内を暖めるべく、全開だった掃き出し窓を閉めてエアコンを作動させる。
専用のブランケットをかけてやってからキッチンへ向かい、ケトルでお湯を沸かす。
「……………………伊織」
「どうかしたか」
こういう時、ココアかミルクティーを欲しがる彼女。
ココアなら牛乳を温めるべきだったか、と冷蔵庫の扉に手をかけたところで小さく名前を呼ぶ声。
視線をソファに戻せば、こちらを向いているようでその実、その瞳には何も映していない。
ケトルが止まるまで、と思いソファに座る彼女の隣に腰を下ろせば、ゴツ……と鈍い音を立てて俺の肩に頭を預けてくる。
「ごめんね、ネガティブで」
「別に、今始まったことじゃない」
「んん〜……辛口〜」
でも、ありがと、と薄く笑う彼女の頭に手を乗せる。
滅多にあることではないが、やはり調子が狂う。
どうにかならないものか、と思ったところでケトルが止まった音が聞こえた。
『少し待ってろ』と声をかけてから再度キッチンへ向かう。
お湯は沸かしたがココアもミルクティーも準備ができていない。
仕方なく彼女がたまに飲んでいる粉末スティックタイプのアップルティーをカップに入れてお湯を注ぐ。
「熱いぞ」
「ありがと……」
彼女のアップルティーと自分のコーヒーを手にリビングに三度戻れば、虚ろな瞳でカップを受け取る桜月。
今日は相当重症らしい。
ふー……と長く息を吹きかけながら、ぼんやりと何も映っていないテレビ画面を眺めている。
「桜月」
「ん……?」
「貸せ」
手をつける気配のないカップを一度ローテーブルに置いて、カップの熱さによって先程よりは温もりの戻った指先を捕まえる。
俺の動きを目線で追っていた彼女がゆっくりと顔を上げて、ようやく彼女の視界に入ることができる。
「……自信なんてものは人から与えられて身につくものではない」
「ん……」
「だが、少なくともお前が努力していることは俺が知ってる」
「伊織……」
「多少のミスは誰にでもある。それを咎める声もあるかもしれない。
……それでも俺は、俺だけはお前の味方だ」
月並みなことしか言えない自分がもどかしい。
それでも少しずつ彼女の瞳に膜が張り、一筋の涙になって零れ落ちる。
涙と一緒にようやく心を覆っていた薄い膜が剥がれ落ちた感覚に内心胸を撫で下ろす。
「、ごめ……迷惑かけて…………」
「今更だな」
「ひど……」
ふっ、と薄く笑う彼女。
先程のそれとは違い、見慣れたいつもの柔らかい表情。
まだ少し硬さは残るが、それでも随分解れたように感じる。
頬を伝う涙を拭ってやれば、甘えるようにその手にすり寄ってくる。
それもいい、と桜月の自由にさせていたら、ふと視線をあげた彼女と目が合った。
その瞳が何となくキスを強請られている気がして、ゆっくりと唇を合わせるだけの口付けを落とす。
「、伊織……」
「何だ、違ったか」
唇を離した後、至近距離で瞳を覗き込むようにして見つめれば、少し恥ずかしそうにしながらも小さく首を横に振る桜月。
少し逡巡した後で蚊の鳴くような声で『もう一回、して?』と。
彼女の望みならば、ともう一度口付けを交わした。
*明日への活力*
(………冷めたな、入れ直すか)
(ごめんね、せっかく伊織が入れてくれたのに)
(別に気にすることじゃない)
(……伊織が、優しい)
(お前、俺を何だと思ってる)
fin...