S 最後の警官

□甘えたい
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訓練と任務と、それに伴う書類仕事が重なって十日ぶりの帰宅。
一週間も部屋を空ければ室内の空気が淀む。
途中着替えを取りに戻ることはあっても空気を入れ替える時間なんてものはなくて、部屋に戻る度に空気が悪くなるのを感じていたが。
そんなことがなくなったのは一年程前からだったか。



「伊織、おかえり〜」
「……ただいま」
「お疲れ様、今回長かったね」
「あぁ」



玄関のドアを開けて頬を撫でるのは、適温に管理された室内の空気。
軽やかな、それでいてどこか楽しそうな彼女の声が鼓膜を揺らす感覚が心地良い。
荷物と上着を受け取った彼女がそそくさと片付けた後で、手洗いをしていた俺の背後に忍び寄って来た。



「……どうした」
「伊織にお願いがあるんだけど……」



珍しく変化球が投げられた。
普段なら直球ど真ん中で要求してくるというものだが。
それだけ言いにくいのか、それとも無理難題を言おうとしているのか。
水を止めて手を拭きながら振り返れば勢い良く抱きついて来る桜月。
バランスを崩すことはないものの、流石に不意打ちが過ぎる。



「おい」
「ちょっとだけ………抱き締めてください」
「………」



突然何を、と口を開きかけたが十日も連絡せずに放置してしまったことへの負い目もある。
黙ってその小さな背中に腕を回せば、小さく笑った後で胸に擦り寄って来る桜月。
人の体温がこんなにも心地良いものだと知ったのは彼女に触れるようになってからか。



「ふふ……伊織の心臓の音、落ち着く」
「………そうか」



人の温もりが、とりわけ彼女の温もりと匂いでこんなにも心穏やかになると知ったのはいつの頃だったか。
そっと頭を撫でれば、ふふふ……と笑みを零した後で背中に回された腕が下ろされる感覚。
腕の力を緩めれば少しだけ彼女との間に空間ができて、想像していた通りの表情で見上げられる。



「ごめんね、ちょっと甘えたかった。今ご飯温めるから」
「あぁ」



するり、と腕を抜け出して行った桜月がキッチンへと向かって行く。
着替えをしてからリビングに戻ればどこか嬉しそうな顔の彼女が温め直した料理をテーブルに並べ終えたところだった。
いつもの席に着くと、二人分の飲み物を手にした彼女が俺の前と隣にコップを置いた。
かと思えばわざわざ椅子を移動させて俺の隣に腰を落ち着ける。



「…………」
「あ、お気になさらず召し上がれ」
「……いただきます」
「はーい」



手を合わせれば軽く返される。
隣に座って何をするのかと思えば、何のことはなくスマホを弄り始めている。
ただ、距離が近い。
食事に支障はないが、距離の近さは気になるところで。
ちらりと視線を動かすと、どうかした?と首を傾げられる。
それはこっちの台詞だ。
喉元まで出かかったが、口に入れた肉じゃがと共に飲み込んだ。

どうせ深い意味はない。











































「ねー、伊織〜?」
「何だ」
「はい、」
「…………………」



洗い物を終えた彼女が俺の座るソファまで来て両手を広げる。
どういう意味か聞く必要もなく。
読みかけの本を閉じれば、空いたスペースにまたしても勢い良く飛び込んできた。
彼女の姿が気まぐれに擦り寄ってくる猫のように見えることすらある。



「……桜月?」
「ちょっと甘えたかっただけ」



ちょっと、という割にはいつもよりもスキンシップが多い気がする。
言葉にはしないが帰る気配のない自分を部屋で一人待っていたことはおそらく寂しかったのだろう。
そう思いながら自分でも無意識のうちにこの柔らかな温もりを欲していたことに気づいて、彼女の背中に回した腕にゆっくりと力を込めた。



「ねぇ、伊織?」
「……何だ」



名前を呼ばれて少しだけ体を離せば、ゆっくりと見上げてきた彼女。
その目が薄っすらと潤んでいるように見えて。
ただそれだけのことなのに、やけに自分の中の欲が刺激されて彼女が何か言葉を発する前にその開きかけた唇を自分のそれで塞いだ。



「、ん」



ゆっくりと離れれば、至近距離で小さく笑う桜月。
背中に回されていた腕が外されて、今度は首に巻き付いてくる。



「……何だ」
「ん?『キスしたい』って言う前にされちゃった、と思って」
「悪いか」
「全然?」



だからもう一回、と強請る彼女。
今の会話の流れでどこに『だから』と繋がるかは分からないが、断る理由もなく誘われるままに柔らかな唇にもう一度噛み付くように口付けた。



「伊織?」
「、っ」
「ふふ……すき」



唇が離れた後で名前を呼ばれた、と思えば今度は彼女から一瞬の口付け。
すぐに離れていった温もりを追いかけようとすれば、どこか幸せそうに笑いながら子どものような愛の言葉。
元々密着していた身体を更に引き寄せて、もう一度口付けようとした時、軽快な音の後で、



『お風呂が沸きました』



と給湯器が給湯完了を告げた。
そういえば食事の前に彼女が風呂を沸かし始めていた。
軽く目を見開いて音の方向を見た後で視線を戻した彼女が小さく笑った。



「ねぇ、伊織」



今日はこのパターンが多い。
そしてこの後に続く言葉は何となく想像がついた。



「お風呂、一緒に入ろ?」






































断ったところでどうなるか、更に面倒なことになるのは目に見えている。
それならば抵抗をするだけ無駄というもので。
一緒に風呂に入りたいという割には体を洗っているところは見られたくない、という謎の発言があり彼女が湯船に浸かるまでは脱衣所で待機。

今更恥ずかしくなったのか『もういいよ』という控えめな声が浴室から聞こえて、ようやく風呂に入ることができる。

頭と体を洗い流した後で彼女の背中側から、桃色の入浴剤で風呂の底が見えなくなっている湯船に浸かれば、膝を抱えて小さくなっている彼女が目に入る。



「……どうした、?」
「、ちょっと恥ずかしくなりまして」
「何を今更」
「そうなんだけどっ、そうなんだけど………」



膝を抱えたまま俺から離れるように湯船の縁に体を寄せていく桜月。
一緒に風呂に入ることも、甘えてくることも、珍しいことではない。
落ちてきた前髪をかき上げた後で変に空いたスペースを埋める為、彼女の腰に腕を回してゆっくりと引き寄せる。
『ひゃあ?!』と変な声を上げているが、この際無視。
彼女の背中を自身の胸まで引き寄せれば、次第に彼女の体から力が抜けていく。

密着したことて彼女の肌の感触がダイレクトに感じられる。



「………伊織?」
「いや、何でもない」



彼女はただ甘えたかっただけ。
十日も帰らなかった俺に、その寂しさをぶつけているだけ。
彼女に他意はない。

そう……ただ、それだけ。



「伊織……?」



黙り込んだ俺を不審に思ったのか、少し不安そうな表情で振り返った桜月の顎を捕らえて、今日何度目かの口付けを交わす。
長いキスの後でゆっくり離れれば、風呂のせいか他の理由かは不明だが上気した頬と潤んだ瞳が映る。

どこかでぷつん、と何かの糸が切れた音がした。
もう一度、今度は彼女の口腔内をじっくりと味わうように舌をねじり込むと、湯船のお湯とは違う水音が脳内に響く。



「っふ、伊織……?」
「悪いな」
「え?」
「変に悩むのは止めだ」
「何、を?」
「帰ってから、あれだけベタベタされて我慢できるか」
「……しなくて、いいのに」
「その言葉……後悔するなよ」



向きを変えた彼女が俺の言葉に何故か嬉しそうに笑った。


*甘えたい*
(ちょ、ちょ、ここで?!)
(騒ぐな)
(お風呂はやだ、恥ずかしい)
(……お前の基準が分からん)
(逆上せちゃうし、上がろうよ)
(そうだな、逆上せても途中で止めるのは無理だ)
(………ばか)


fin...


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