S 最後の警官

□貴方なしではいられない
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社会人たるもの自分の機嫌は自分で取る。
誰かに八つ当たりしたところで何の解決にもならないことは十分に理解している訳で。
例えそれが恋人が相手だったとしても、だ。
できるだけそんな情けない姿を見せたくないと思うのはなけなしの自尊心から来るものか。

『今から帰る』

そうメッセージが届いたのは20分ほど前のこと。
帰って来て欲しい時には帰って来なくて、帰って来て欲しくない時にこそ帰って来る。
……帰って来て欲しくないなんて心底から思ってはいないけれど。
ただ、タイミングというものがある。

今日は朝からひっきりなしに外注先からの問い合わせの電話や取引先からの突然の依頼変更への対応で思うように仕事が進まなかった。
腰を落ち着けて今日やるべき仕事に取り組めたのは午後に入ってから。
ようやく調子が出てきたところで今度は上司にデータのミスを指摘されてそちらの修正に追われ。
結局、今日の仕事のノルマは半分も達成されていない。
本来なら残業すべきところなのは分かっていたけれど、きっと今日は何をしてもダメな日なんだと全て明日の私に任せてパソコンをシャットダウンさせた。
仲の良い同期と飲みに行こうかと思って声をかければ今日は合コンだから彼氏持ちは来るなと言われて。
本当に今日はツイてない、とコンビニで缶チューハイと軽いおつまみを買って帰宅した。
こういう日は家事なんてせずに軽く飲んで早く寝るに限る。
そう思って着替えを済ませれば、下腹部に鈍い痛み。

悪いことは重なるもので、予定よりも早い月のものの到来。
踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂とはまさにこのことか。
それならお酒は止めておいた方がいいか……いや、でも今日は飲まないとやってられない。
そんなことを考えていた矢先の彼からのメッセージ。

『ごめん、ご飯買ってきてくれる?
仕事忙しくて何も用意できてないんだ』

波立った心が文面に表れないように返信をして、先程買った缶チューハイの口を開けた。
喉を通る液体と一緒にこのモヤモヤした感情も流れてしまえばいいのに。



































「おかえりー」
「ただいま」



『分かった』という端的なメッセージの返信から15分。
玄関のドアが開く音がして、彼がやや疲れた面持ちでリビングへと入ってきた。
たったの35分で今日一日で積もり重なったモヤモヤが晴れるはずもなく、心持ちは沈んだまま。
それでも私以上に疲れているはずの伊織に余計な心配も気遣いもさせたくなくて、空元気を総動員して顔面に笑顔を貼り付ける。

リビングテーブルに置かれた缶チューハイを一瞥した伊織が着替えてくる、と私の頭に手を乗せてから寝室へと姿を消す。
あぁ、帰って来る前にせめて空き缶だけでも片付けておけば良かったかも……なんて思ったけれど、そこまで頭は回転していなかった模様。
それでもそんなに気に留めることもないだろうと残っていた缶チューハイの中身を一気に煽って今日三本目の缶に手をかける。



「飲みすぎじゃないのか」
「んー?今日はこれで終わりにするから平気」



着替えを済ませた彼が寝室から出て来たのが背中越しにも分かる。
そしてどんな表情をしているかは声色から想像がつく。
眉間に皴を寄せて難しい顔をしているはず、そう思いながら振り向いて彼の表情を確認すればそこには想像通りの顔をした彼がいた。



「当ったり〜」
「……何がだ」
「ん?難しい顔してるだろうなーって」
「分かってるなら酒を止めろ」
「えー、開けちゃったからこれだけ飲む〜」



上手く笑えているだろうか。
ぎこちなさは出ていないだろうか。
軽い口調を絶やさないようにしながらもそんなことばかりが脳裏をよぎる。

ソファに座っていた私の隣に腰を下ろした伊織が帰宅時に下げていたコンビニの袋からお弁当を取り出す。
その動きを横目で見ながら、テーブルに置いていたスマホに手を伸ばせば横から伸びてきた手に動きを制された。
何事かと伸びてきた手の元を辿れば、何とも感情の読めない表情の彼。



「……伊織?」
「こっちはお前のだ」
「え、?」



そう言ってスマホに伸ばした手を返されて掌に乗せられたのは期間限定のシュークリーム。
疲れた頭では処理速度が追い付かず、伊織の顔と手に乗せられたシュークリームとを交互に見比べてしまう。
そんな私の表情を見た彼が小さな溜め息を一つ。



「仕事、忙しかったんだろ」
「え、あー……うん、まぁそれなりに」
「それなり、という顔はしてない。
そもそもメッセージの文面からしておかしいことに気づけ」
「、え」



残業してきて何も用意できてない、なら分かる。
けれども仕事が忙しくて、に繋がるのは違和感を覚えたと言う。
観察眼に優れているとは思っていたけれど、まさかあんなメッセージ一つでここまで察せられるなんて思ってもいなかった。
勘の鋭い彼氏を侮っていたようだ。

分かっていて茶番に付き合ってくれていた辺り、彼の優しさがやけに身に染みる。
渡されたシュークリームに視線を落としていたら頭に彼の手が乗せられた感覚。
ゆっくりと顔を上げれば、先程の難しい顔から一変して柔らかい表情の伊織と目が合った。



「い、おり……」
「いつも言ってる。無理に笑うな」
「ごめ、」



謝らなくていい、そう言いながらそっと抱き寄せられれば、積もり重なった負の感情が涙となって溢れ出てくる。

あぁ、だから帰って来て欲しくなかったのに。
私以上に疲れている伊織に慰められるなんて申し訳なくて。
もっと感情の整理整頓を上手くできれば伊織に迷惑をかけることも、気を遣わせることもなくて。

そう思う一方で私の頭を撫でる手が、抱き締められる温もりが固くなった身体と心をゆっくりと解きほぐしてくれる。
これはきっと彼にしかできないことで。



「伊織、」
「何だ」
「あんまり甘やかさないで……伊織がいないと、ダメになる……」



涙声で訴えれば、彼が小さく笑った気がした。
どうして笑われたのか分からなくて顔を上げれば、指先で目尻をそっと撫でられる。
その優しい手つきにまた涙が溢れそうになり、涙腺を引き締めるようにぎゅっと目を瞑る。



「それも悪くないな」
「、え?」
「お前を……桜月を甘やかすのは俺だけでいい。
他の誰にもその泣き顔を見せるなよ」
「っ……ず、るい……」



額を合わせながら至近距離でそんなことを言われたら、もう。


*貴方なしではいられない*
(伊織のばか)
(何とでも言え)
(ばか、すき)
(奇遇だな)
(……何が?)
(俺も同じことを考えていた)
(え、)
(本当にお前はバカだ、俺に隠し事なんて無理に決まってるだろう)
(そっち?!ひどくない?)

fin...


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