S 最後の警官

□君に溺れる
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天気予報が外れて昼から降り始めた雨。
彼女が置き傘代わりに、と入れてくれていた折り畳み傘をかぶって帰路につく。
部屋のドアを開けていつものように帰宅を告げるが返事はない。
そこで返事がないどころか室内からは人の気配も感じられない。
普段ならばとっくに帰宅しているはずの時間。
スマホを確認すると残業とも連絡が入っていない。
寝室のクローゼットに上着と鞄を片付けてからリビングへと戻り、室内の照明を点ける。

改めて彼女の姿がないことを確認してから、必要ないかもしれないけれど、と互いのスケジュールを把握するために彼女が置いた卓上カレンダーを見遣る。
互いの、というよりはほぼ彼女のスケジュールで自分のスケジュールは休み予定の日くらいしか入っていない。
それでも今日の日付を確認すれば友達と食事に行くとか外出するといった予定は記入されていなかった。

……と、なると何かあったか。
ストーカー被害に遭っていた時のことが頭を過ぎる。
彼女自身、変にお節介というか世話焼きというか困っている人を見ると放っておけない質というか。
つまるところ彼女の幼馴染と似通った部分があって。
そのおかげか、そのせいか無意識に人を誑し込む性質をもっている。
また厄介ごとに巻き込まれていなければいいが。

一つ溜め息を吐いた後でスマホのロックを再度解除して、通話履歴の一番上の番号を開いて発信をタップする。
そもそもスマホを手元に置いてあるのだろうか、と一瞬不安が過ぎったがその不安は杞憂に終わり、コール音一回ですぐに電話は繋がった。



『もしもし〜?』
「今どこにいる」



思いの外元気そうな声に内心安堵の溜め息が漏れる。
そして電話越しに小さく聞こえる喧騒。
何となく彼女が今いる場所を察しながらも問いかければ、何てことないように彼女が返事をしてきた。



『会社と家の中間地点のカフェ』
「……体調でも悪いのか?」



否定が返って来ることは分かっていながらも念のための確認。
これで何があったか説明があるだろう。



『いや、実はヒール折れちゃって』
「何?」
『置き傘も折り畳み傘もないから走って帰るところだったんだけど、マンホールにヒールを引っかけちゃって』



人の鞄に折り畳み傘を入れるついでに自分の物も用意すればいいものを。
よく気がつく割には変なところで、殊更自分のことになると気が回らないというか。
知らず知らずのうちに溜め息が漏れる。
彼女はよく溜め息吐くと幸せが逃げると言うが、彼女と話していると溜め息の数が増えるのは致し方ないことではないだろうか。



「ケガはないのか」
『手をついた時にちょっと擦りむいたくらい』



あと膝もかな?と他人事のように話す。
本当に、自分のことにもう少し頓着してほしいものだ。

窓の外を見遣ればまだ止む気配のない雨足。
寧ろ帰宅した時よりも強くなっている印象を受ける。
致し方ない。



「迎えに行く。代わりの靴は何でもいいな」
『え、』
「十分以内に行く」



そこで待ってろ、と告げた後で通話を終了させてリビングの照明を落としてから再び玄関へと向かう。
スマホと財布と部屋の鍵、それと二人分の傘があれば十分だろう。

シューズボックスの中から適当に彼女の靴を手に取って袋に押し込み雨が降りしきる中、彼女がいるカフェへと足を向けた。
































「桜月」
「あ、伊織」
「帰るぞ」
「うん、ごめんね。ありがと」



カフェの前で俯きがちに雨宿りをしている彼女の姿を見つけて声をかければ、パッと勢いよく顔を上げた桜月。
信じられないものを見たような表情。
迎えに行くと言っただろうが。
彼女に聞こえない程度に溜め息を吐いた後、持って来ていた替えの靴を差し出す。
靴を履き替えてヒールの折れてしまった靴を袋に入れた後で傘を手渡せば、また申し訳なさそうに『ありがと』と笑った後で傘を広げてこちら側へと足を踏み出した彼女。
それを準備ができたという合図だと受け取り、踵を返してきた道を戻る。
思いの外、濡れた様子も怪我を気にする姿も見られず内心安堵した。



「ねぇ、伊織」
「何だ」
「仕事で疲れてるのにごめんね」
「……別に、これくらい大したことじゃない」



そう、彼女が思うほど気にするようなことでもない。
彼女の言葉を借りるとするならば、ただ俺がそうしたかっただけ。

いつも人のことばかり気にかけて自分を顧みない彼女。
こうして一緒にいられる時くらい、俺が彼女のことを気にかけても罰が当たることはない。
そんな俺の考えを知る由もない彼女はどこか申し訳なさそうに俺の半歩後ろを付いてくる。

普段ならば煩いくらいに何かと話しかけてくるところなのに、今日は何の引け目があってか押し黙ってしまっている。
全く、調子が狂う。



「桜月」
「、うん?」
「早く歩け、置いていくぞ」
「えっ?それは嫌」



慌てたように隣まで急ぎ足でやって来る彼女。
ふ、と自分でも口元が緩むのが分かる。
ここでようやく自身の心の緊張が解けていくのが分かる。

いつもならば部屋で彼女に出迎えられた時に感じるこの感覚。
そういえば今日は部屋のドアを開けただけではこの充足感を味わうことはできなかった。
つまるところ、それは。



「伊織?」
「……何だ」
「ちょっと、雨弱くなってきたね」
「そう、だな……」



傘を差したまま緩く顔を空へと向ける彼女に倣うように天を仰げば、確かに先程マンションを出た時よりも雨足は弱まっている。
これは程なくすれば止みそうな勢い。
……この調子なら迎えは必要なかったか?
いや、ヒールが折れているならば結局替えの靴は必要だったか。

そんなことを考えていたら、隣を歩いていたはずの彼女が再び半歩程後ろへ下がっていた。
考え事をしていて彼女の咄嗟の行動に反応が遅れる。
何をしているのか、と問う前に傘を閉じた彼女が自分が差す傘の中へと身体を滑り込ませてきた。
若干驚いて彼女を見下ろせば、悪戯が成功したような表情の彼女と目が合った。



「お邪魔しまーす、?」
「おい」
「え、雨弱くなってきたから傘一つでも大丈夫かな、って?」
「……勝手にしろ」



これまでの経験上、こうなった時……彼女のこの表情には何を言っても無駄だということは重々承知している。
拒否の言葉は受け取らない、受け取ろうとしないことは確実。
二人で差すには少し手狭な傘を桜月に気取られない程度に彼女の方へと傾ける。

そんな俺の行動を見透かしたのか、それとも偶然か。
傘を持つ手にするりと腕を絡ませてくる桜月。
少しだけ彼女との距離が近くなり、傘の中に並んで入ることができる。

目の前の信号が赤に変わる。
歩みを止めたことで密着しやすくなったからか、彼女の頭が自分の肩にぶつかる感触。



「ふふふー」
「……何だ」
「ヒール折れちゃったの、お気に入りの靴だったけど伊織が迎えに来てくれたし、相合い傘もできたからプラマイゼロだなーって」
「お前は、安上がりだな」
「どうせ安い女ですよーだ」



どこか不貞腐れたような彼女の声。
顔を見なくてもどんな表情を浮かべているのかが分かる。
子どものようにくるくると変わる彼女と、感情が表に出ない自分とでは案外相性がいいのかもしれない。
柄にもなくそんなことを考えていたら沈黙を肯定と受け取ったらしい桜月が本格的に拗ね始めたようで、先程閉じたはずの彼女の傘を再び開こうとしているのが視界の端に映る。
それはそれで面白くない。
空いている手で彼女の動きを制した後、車道側に傘を向けてから触れるだけの軽い口づけを彼女に落とす。
一瞬だけ触れてすぐに離れた、子どものようなキスでも彼女の頬を朱に染めるには十分だったようで。
信じられない、とばかりに目を見開いた彼女が何かを言おうとして口を開き、また閉じ……を繰り返してようやく声が聞こえてきたのは目の前の信号が青に変わって、また点滅した頃。



「い、おり……!?」
「安いことが悪いとは言わない」
「、狡い……」



こんなところで、こんなことするなんて……とぶつぶつ言いながらも彼女の傘にかけていた手を再び自身の腕へと着地させる。
そんなことすらも愛おしいと思える程に、俺は彼女に溺れているらしい。


*君に溺れる*
(伊織が変)
(何がだ)
(だって、こんな場所でこんなこと)
(前方後方、周囲に人影がないことは確認してある)
(……流石です)
(当然だ)

fin...


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