MIU404長編

□最終話
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「藍ちゃーん」



交番の入口から中で何やら書き物をしている彼に声をかけるが反応なし。



「ねぇ、藍ちゃん」



もう一度、今度は少し大きな声で呼びかけてみるが、やっぱり反応がない。
耳がいいはずの彼がこの距離で聞こえないはすがない。
………理由は分かっている。



「〜〜〜っ、ねぇ……藍、」
「ん、どした〜?」



やっぱり、そういうこと。

3ヶ月前のあの日、藍ちゃんに気持ちを伝えた日。
『お願い』と称して言われたことがある。

名前を呼び捨てにして欲しい、と。
それは初めて会った日に言われたけれど、年上の男性を呼び捨てなんてできないとずっと『藍ちゃん』と呼んでいた。
けれど彼は言う。
『付き合うなら呼び捨てがいいな』なんて。

勿論、今までずっと『藍ちゃん』と呼んできて急に呼び捨てにするなんて抵抗しかない。
不意に口から出てくるのもこれまでと同じ呼び方。
初めのうちはその度に訂正されていたけれど、最近では『藍』と呼ぶまで振り向いてくれないという強硬手段が取られている。
私としてはこれまでと同じでいいと思っているのに、彼の中ではどうも違うらしい。
その理由を前に一度聞いたけれど『一応警察官だし?昔と同じ呼び方だと色々?』とお茶を濁されたというか本人も上手く説明できていないというか、そんなふんわりとした話をされた。
警察官であることの何が問題なんだろうか。
紆余曲折はあったものの双方合意の上での付き合いだし、私ももうすぐ社会人になる訳で……まぁ私が深く考えたところで彼の突飛な考えなんて分かる訳もなく。



「ん?桜月?」
「あ……もうそろそろ終わるかな、と思って」
「終わり終わり〜、桜月が来たから帰る〜」
「何それ」
「彼女が来たのに仕事なんてやってらんないって〜」
「不良警察官め」
「元ヤンキーでーす」
「そこ、威張るとこじゃない」



『彼女』という単語に擽ったさを感じる。
これまで家族みたいな存在だったのに、そこにまた新しい関係が生まれるなんて思ってもみなかった。



「最近交番来ないじゃん、何で?」
「……もう少しで社会人なので、入り浸るのもどうかと思って」
「ふーん……俺は気にしないけどな〜」



今日のご飯はなーにかな、なんて歌いながら家へ向かう藍ちゃん。
その背中を目で追いかけながらようやく息をつけた気がする。

最近、というよりお付き合いを始めた頃からどうやって藍ちゃんと接したらいいのか分からない。
付き合うと言っても藍ちゃんは仕事があるし、私も就職先での研修や卒業に向けての準備等々……忙しく過ごしている感じはあってこれまでと何ら代わり映えしない過ごし方。

変わったことと言えば、少し……ほんの少しだけスキンシップが増えた。
というより、あの日から隙あらばキスをされることが多い。
される箇所は唇に限らず、額、頬、耳、瞼……顔中に。
その度に恥ずかしくて間違いなく耳まで赤くなっている。
私の反応を楽しんでいる節はあるのだけれども、男女の関係をそれよりも先に進める気配はなく、例によって例の如く夜8時には『おやすみ』と帰って行く藍ちゃん。

確かにお付き合いする男性は彼が初めてだけれども、それなりに人生歩んできた。
何も知らないという訳でもない。
経験はないけれど、友人達の話だけはたくさん聞いてきた。



「桜月?」
「あ……うん、何でもない。ぼーっとしてた」



毎日のように好きだという割にキス以上はしてこない。
心待ちにしている訳でもないけれど交際関係になってから3ヶ月は経過していて、そういう行為に及んでもおかしくはないと思ってはいるのに。
彼の真意はどこにあるんだろう、そう思わずにはいられなかった。








































「ごちそうさまでした〜」
「お粗末様でした」



今日も変わらず一緒に夕飯を摂って、
並んで食器を片付けて、
テレビを見ながら他愛もない会話をして、

柱時計が20時を指した時、



「じゃ、俺は帰ろっかな〜」



と、いつものように帰り支度を始める藍ちゃん。
その言葉を聞いて思わず腰を上げかけた彼の服の袖口を掴まえていた。
当然のことながら驚いた表情で私を見下ろす彼と、自分の行動に驚いている私。



「桜月?どした?」
「藍、ちゃん……」
「ん?」



思わず呼び方が戻ってしまったけれど、私の様子に違和感を覚えたのか浮かせた腰を元いた場所に戻して顔を覗き込んでくる。
何だか泣きそうなのはどうしてだろうか。
好きだと気持ちを確かめ合ったのに、藍ちゃんがキスより先に進もうとしないのは何故なのか。
私に魅力がないから?
やっぱり初めてというのは面倒なんだろうか。



「ん?桜月?藍ちゃん帰るのが寂しくなっちゃった?」



あながち間違いでもないけれど、そうじゃない。
でも、自分から口にするのは勇気がいる。
だってこんなの、まるで私ばかりが彼を求めているようで。



「、藍…………」
「桜月?」
「……何、で?」
「ん?」



何で……しないの、自分の耳にすら届かないような小さな掠れた声。
それでも聴力の優れている彼の耳にはしっかりと届いたようで、言葉の意味を捉えるのに一瞬の間があった後で力強く引き寄せられて痛いくらいに抱き締められた。



「あ、藍ちゃ……」
「俺さ、」
「え?」
「めちゃめちゃ我慢してんの」
「……我慢、?」
「そ、我慢。
桜月にとって初めての彼氏だし?
ちゅーするだけで真っ赤になっちゃうし?
これ以上手ぇ出したら爆発しちゃうんじゃないかなって」
「……いくらなんでも人間は爆発しないよ?」
「そういう風に見えたの!」



確かにキスされて真っ赤になっている自覚はあったけれど、傍から見るとそんなにひどい顔をしていたのか。
それもまた恥ずかしい。
でも、だからと言って、



「我慢って……」
「俺だって男だよ」
「それは……知ってる」
「好きな子にこんなこと言われたら今日は帰れないし、何もしないとか言わない。つーか、するよ」
「っ……」
「大事にする、だから……いい?」



大切なことはちゃんと目を合わせて伝えてくれる。
彼のこういうところも、好き。

瞳の奥にゆらゆら揺らめいている物が見えて、それを見つめながらゆっくりと頷けば、綺麗な顔で笑った彼にそっと口付けられた。



「じゃ、桜月の部屋行く?」
「…………嫌」
「え、」
「お風呂入りたい」
「えー、後で良くない?」
「良くない!絶対嫌!」
「んん〜……ま、ここまで待ったし、あと何分か待つのなんて大したことないか〜」



何てことないように笑う藍ちゃんだけれども、私の内心はそれどころではなくて。

お風呂に一緒に入る、なんて言い出した彼を止めて慌ててお風呂に入って。
今度から替えの下着持って来よーっと、なんて楽しそうにお風呂に入りに行く彼の背中を見送って。

二人で私の部屋へ行って。


やっぱり名前で呼んで、と掠れた声で言われて。



それから、それから。

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