MIU404長編

□四話
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今日は伊吹さんがハムちゃんという女性を連れて来ると言っていた。
記憶を無くす前に仲良くしていた人、らしい。
どんな人かは勿論覚えていない。
ハムちゃんが来る日まで間があって、伊吹さんにハムちゃんがどんな人か聞いてみたけれど、あまり多くは教えてもらえなかった。
それでも私のスマホ(と言っても事故で壊れてしまったので新しいものを伊吹さんが用意してくれた)でクラウド上に保存してあった画像データを見せてもらい、顔だけは知ることができた。

可愛い人、初めて見た印象はそれだった。
一緒に写っている男の子はゆたかくんという子。
もう一人の女性は桔梗ゆづるさん、ゆたかくんのお母さん。
私も一緒に写っていて確かに仲が良さそうに見える。

動画もあって、伊吹さんが帰った後でいくつか開いてみれば皆楽しそうに笑っている。
動画の中では私も楽しそうで、スマホで撮影しているであろう伊吹さんに向かって『藍』と呼びかけている。
姿は見えないけれどスマホを構えている伊吹さんの楽しそうな声も聞こえてきて、優しい声で『桜月』と私を呼ぶ。

彼と記憶を失くす前の私の関係は薄々分かっていた。
事故後、意識を取り戻した時に病室に飛び込んできた彼の表情と、泣きそうになりながら私の名前を呼んだ声。
誰?と問うた時の彼の絶望にも似た表情。
きっと彼は私にとって大切な人で、彼にとって私もまた同様だったはず。
一度、伊吹さんの同僚の志摩さんが一人で病室を訪れたことがあって、思い切って彼との関係を聞いてみたことがあった。
『一つ言わせてもらうと、伊吹と貴女は恋人という言葉では片付けられない……もっとお互いが大切でかけがえのない存在に見えました』と余計に悩みが大きくなるような回答が返ってきた。



私には身寄りがないらしい。
厳密に言えば親戚は遠方にいるようだけれど、身元保証人になってくれるような人は側にいないと聞いた。
まぁ、伊吹さんとその同僚の志摩さん以外の身内と呼ばれる人がお見舞いに来ないところを見るとそれは本当らしい。
友人や職場の人には伊吹さんから話をしてくれたようで、今はまだ会わずに済んでいる。
正直、顔を合わせたところで何か話せる訳でもないし、この状況では有り難い。
きっと私の見えない場所で伊吹さんにはたくさん迷惑をかけているのだろう。
だからこそハムちゃんが会いたいと言っている、と言われた時は少し戸惑ったけれどこれ以上の迷惑をかけたくないという思いもあって、彼の申し出を了承したのだった。



「こんちは〜、ハムちゃん来たよ」
「桜月ちゃん……!」
「ハム、ちゃん……?」
「良かった、……!」



面会時間が開始して間もなく伊吹さんが病室に顔を出した。
その後ろから顔を覗かせたのは画像で見た顔、ハムちゃんだった。
連れて来ると聞いていたし、画像で顔は確認していたので間違いはないと思うけれど如何せん今の私は記憶がない。
首を傾げながら与えられた情報を元に名前を呼べば、くしゃりと顔を歪めて泣き出しそうな表情を見せるハムちゃん。

あぁ、彼女にも心配かけていたんだな、と思う。
無理もない、仲の良い人間が一ヶ月前に生死の境を彷徨ったのだ。
きっと私が彼女の立場でも同じ反応をするだろう。
ただ、私は彼女が涙を流すところを見ていることしかできない。
『ごめんね』とも『ありがとう』とも今の私が言えることではないはずだから。

見かねたらしい伊吹さんがハンカチで目元を押さえているハムちゃんの背中をぽんぽんと叩いてから、ゆっくりとベッドサイドまで進むよう促してくれた。



「元気……ではないよね、入院してるもんね」
「そう、ですね……元気です、とは言えませんけどこれでもだいぶマシになったんですよ」
「もっと包帯ぐるぐるだったもんな〜」
「伊吹さん、それは笑えないです」
「ごめんごめん〜」



いつも彼が座る椅子にハムちゃんが座り、伊吹さんはベッドの足元に座る。
目元を潤ませている彼女とどう話せばいいだろう、と少し悩んだけれど伊吹さんが緩衝材になってくれるお陰で会話に困ることはなかった。

30分ほど他愛もない話をしたところで飲み物買ってくる、と席を外す伊吹さん。
その背中を見送っていれば、ハムちゃんに名前を呼ばれる。
視線を彼女へと移せば、病室に入ってから初めて見る真剣な表情。



「記憶は、戻っていないのよね……?」
「……はい、残念ながら」
「そう………ねぇ、桜月ちゃん」
「はい、?」
「私のこともゆたちゃんのことも、他は何も思い出さなくていい。
でも伊吹さんのことは絶対に思い出して」
「、え……?」



それはどういうことなんだろう、と無意識のうちに眉間が寄るのが分かった。
彼女は続ける。
伊吹さんといる時の私が自然で幸せそうで一番好きだ、と。
それは彼もそうだから、思い出して欲しいと強く手を握り締められながら、懇願するように言葉を紡ぐハムちゃん。


志摩さんも、ハムちゃんも難しいことばかり言う。
私だって思い出せることなら思い出したい。
けれど何をどうすればいいのか分からない。



「ん?どした〜?」
「んーん、何でもない」



パッと手を離したハムちゃんが飲み物を抱えて戻ってきた伊吹さんに笑いかける。
適当に買ってきた、と話す伊吹さんの手には水、お茶、ミルクティー、レモンティー、カフェオレ、オレンジジュースと色々な種類の飲み物。



「買い過ぎじゃないですか……?」
「いいじゃんいいじゃん、飲まなかったのは置いていくからさ〜」



桜月ちゃんはこれかな〜、と手渡されたのはミルクティー。
この中で飲みたいと思ったものは確かにミルクティーだけれど、どうして伊吹さんにはそれが分かるのだろう。
思わず彼を見上げれば、緩く首を傾げられた。



「ん、あれ?もしかして違った?」
「あ……いえ、大丈夫です。ありがとう、ございます……」
「ハムちゃんはどれにする〜?」
「じゃあお茶もらおうかな」
「オッケー」



ペットボトルの蓋を開けて、ゆっくりの喉に流し込む。
目の前で繰り広げられる二人の楽しそうな会話が脳には届かず、耳を通り過ぎていく。
ゆたかくんがどうとか、桔梗さんが志摩さんが、陣馬さん九重さん糸巻さん、聞いたことのある名前。
けれど顔も知らない人達。
……本当は知っているはずの人達。

情報が多すぎる。
脳に入って来ない。

頭が痛い。
お願いだから、そんなに楽しそうに笑わないで。



「っ、」
「桜月ちゃん?」
「ぅ………」
「桜月?!」



頭が割れるように痛い。
ベッドに座ったまま蹲るように頭を抱えれば、遠くで私の名前を呼ぶ伊吹さんとハムちゃんの声。

分かんない。
頭痛い。




「桜月っ!!」



彼が私を呼ぶ声がハッキリ聞こえた、と思ったらそこで意識が途切れてしまった。


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