MIU404長編

□五話
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事故から二ヶ月。ようやく退院が決まった。
少し歩行に違和感はあるけれど、それもリハビリに通うことで話はついている。

お世話になった先生や看護師さん達に挨拶をしてから病院を後にしようと思って、思い出した。



「どうかした?」
「あの……加瀬先生、でしたっけ。事故に遭って運ばれてきた時に救命でお世話になった」
「あぁ、うん。加瀬先生。どうかした?」
「その先生にもお礼したいな、って」
「ん、じゃあ行ってみる?」
「はい」



退院には当たり前のように伊吹さんが付き添ってくれている。
確かに今、一人で病院を出たところで文字通り右も左も分からない私には伊吹さんだけが頼みの綱だ。

歩き慣れた病院内。
ゆっくりと救命科に向かって歩く。
スパルタなリハビリのお陰でだいぶマシにはなったけれど、まだ長い距離の移動は疲れる。
しかも救命科は病院の正面玄関からは真逆の場所にあるのだから、移動距離はたぶんリハビリの時よりも長い。



「疲れない?無理そうなら俺、加瀬先生呼んでくるよ?
それとも車椅子借りてくる?」
「大丈夫、です……これくらい、歩けないと……」



休み休み、何とか救命科に辿り着くことができた。
牛歩の歩みに付き合ってくれた伊吹さんには感謝である。
さて、どうしようかな、と思っていたら中からドアが開いて大きな男性が出て来た。



「あ、」
「あ?……アンタ、高宮さん?」
「はい、高宮です。今日退院になったので、ご挨拶に来ました」
「そうか……退院か」
「お世話になりました、加瀬先生のお陰です」
「いや……」
「……?」



急に明後日の方向を向いてしまった加瀬先生。
首を傾げていれば、加瀬先生の後ろにいた若い女医さんがニヤニヤしながら加瀬先生をつついた。



「加瀬先生、嬉しいんですよね〜?救命はこうしてお礼言われること少ないから」
「下屋、お前煩ぇぞ!」
「まぁ……逆行性健忘?はまだ治ってないんですけどね」
「、そうか」



一瞬、伊吹さんに視線を移した加瀬先生に大きな手でぽんと肩を叩かれた。
伊吹さんとは違う、大きくてごつごつした手。



「命が助かって、意識が戻って良かった。
救命は送り出した後どうなったか分からねぇことがほとんどだからな」
「本当にありがとうございました」
「もう戻って来るなよ」
「ふふ、気をつけます」



もう一度頭を下げて今度こそ病院を後にする。
気分転換に、と病院の中庭や屋上には出ていたけれど、病院の外に出るのは事故以来初めて。
病院の前でタクシーに乗って、アパートへ向かう。
道順を覚えようと窓の外を眺めていたけれど、目に飛び込んでくる情報の多さに頭がくらくらして思わず目を背けてしまった。
やはり病院は病人や怪我人に優しい、刺激の少ない作りになっていることが退院してみて分かった。








































「はーい、到着〜。退院おめでとー!」
「わー……?」



アパートの一室のドアを開けて拍手してくれる伊吹さん。
つられて拍手をするが、正直『帰って来た』という感覚はない。

1DKの扉を取り払って、広く感じる空間。
キッチンも、ソファも、部屋の一番奥のベッドも、ブラウン系で統一されていて差し色の赤が映えている。
部屋の雰囲気がすごく好き。
観葉植物の緑も綺麗。

すっきりと片付けられていて、本当に私の部屋なんだろうか?



「お茶淹れるから、とりあえず座ってて」
「あ……すみません」
「いいのいいの、疲れたでしょ?」
「え、?」
「ん?タクシー乗ってる時、途中から外見なくなってたし、ちょっと顔色悪いからさ」



ずっと病院にいたし、久しぶりの外は疲れるよな〜、と言いながら入院中の荷物をクローゼットの前に置いてキッチンでお湯を沸かし始める伊吹さん。
勘が鋭いというか洞察力が優れているというか。

ソファ座ってて、と促されお言葉に甘えてソファの端に座れば少し気分が落ち着く。
記憶はないけれど、体が覚えているのだろうか。
何となくホッとするのはここが自分の部屋だからなのかもしれない。



「お待たせ〜、カフェオレでーす」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして〜」



カップを受け取り、ゆっくりと口へ運ぶ。
ちょうど良い温かさで火傷することはないだろう。
ミルクたっぷりで甘くて美味しい。



「美味し……」
「んふふ〜、カフェオレはミルクたっぷりで甘めのが好きだもんな〜」
「……伊吹さんは、私のこと何でも知ってるんですね」
「んんー……10年は一緒にいるからなぁ」
「10、年」



ぽつりと呟くように聞こえた『10年』という言葉の重み。
人生の三分の一以上を一緒に過ごしている人、?



「そうだ、桜月ちゃん」
「はい、?」
「もうちょい体調戻ったら奥多摩の家行こっか」
「奥多摩……?」



私の家はここではないのか。
奥多摩の家とはどういうことなんだろう。
そんな考えが浮かんでは消える。

おそらく顔に出てしまっていたのだろう。
ふっ、と笑った伊吹さんがぽんぽんと私の頭を撫でた。
この人に頭を撫でられるのはすごく落ち着く。
それはやはり長い年月一緒にいるということを脳が覚えていなくても体が覚えているからなのか。



「今住んでるのはここだけど、奥多摩は桜月ちゃんが生まれ育った……は、違うか。
8歳から暮らしてた家があるんだ」
「………私が、暮らしていた家」
「そ、おじいちゃんおばあちゃんの家なんだけどね。
アルバムとか桜月ちゃんの部屋とかそのままになってるから、一回行ってみない?」
「記憶が戻るきっかけになるかもしれませんね……」



記憶というものに執着はない。
執着がないというより、そもそも自分自身が何者なのか分かっていないのだから執着のしようがない。
こんなこと言ったら病院でお世話になった先生や看護師さん達に怒られるかもしれないけれど戻ったらラッキー、くらいにしか初めのうちは思っていなかった。

けれど、何とかして取り戻したいと思うようになったのは、



「伊吹さん、」
「ん?」
「私、頑張ります」



優しく笑うこの人の為。
私に向けて時折寂しそうな笑顔を見せる彼の為に、



「奥多摩行こって言ったけどさ、あんま頑張んなくていいよ」
「、え?」
「奥多摩もだけどさ、色んなとこ行こーよ。動物園とか、遊園地とか、いっぱい遊びに行こ?」
「動物園も遊園地も行ったことあるんですか……?」
「んー、動物園はだいぶ前に行ったけど遊園地は約束してたけどまだ一緒に行ったことないな〜」



記憶探しの旅、という訳ではなさそう。
彼の真意を捉えかねて首を傾げれば、カップが手の中からテーブルに移動させられて空っぽになった手を彼の大きな手で包まれる。
この手の温もりはすごく落ち着く。



「まだ、ちゃんと話したことなかったんだけど……俺と桜月ちゃんは付き合ってた」
「それは……何となく、察してました」
「だよなぁ。
…………記憶喪失、って言われてもやっぱ俺は桜月が好きだし、できれば記憶は戻って欲しい」



それはそうだと思う。
もし私が彼の立場なら、自分の恋人が自分のことを忘れてしまったら、どうにかして記憶を取り戻したいと思うだろう。



「でもさ、」
「………?」
「無理はしてほしくないし、この前みたいに意識失くすのとかはホント勘弁」



この前、とはきっとハムちゃんがお見舞いに来てくれた日のことを指しているのだと思う。
確かにあの日は……否、あの日も彼には相当な心配をかけたはず。
意識不明の状態を脱した人間が急に意識を飛ばすなんて、心臓には悪そうだ。



「だから、ゆっくり行こーぜ。
いっぱい出かけて、楽しいこといっぱいして、またたくさん思い出作ろ」
「伊吹さん……」
「記憶喪失だからって誰かに渡すつもりないし、………また、俺のこと好きになってよ」



彼の切なげな表情に心臓が跳ねる。

どうして私は忘れてしまったんだろう。
こんなにも私のことを想ってくれる人のことを。
ハムちゃんが『伊吹さんのことは思い出して』と言っていた意味が何となく分かった気がした。


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